SPECIAL CONTENTS 「勝てる脳」のきたえ方 「心」と「技」に脳科学で迫る 連載第3回 (前編) | 2016.5.30

生体情報から、心身の状態を探る(前編)

心拍が語る本番と練習の違い

練習ではうまくいくのに、試合になるとあがってしまい、いいパフォーマンスができない人。逆に、本番で「火事場の馬鹿力」が発揮できる人。その違いはどこにあるのか。「Sports Brain Science Project(スポーツ脳科学プロジェクト)」において、生体情報から「メンタル」成分の抽出を手がけている若手研究員、井尻哲也氏と柏野牧夫氏に話を聞く。


スポーツ時の心拍からアスリートの「緊張」をとらえる

—どのような研究を手がけていらっしゃるのですか?

井尻 現在、手がけているのが、hitoe(第5回参照)を装着して試合中の心拍と、加速度を計測し、そこからアスリートの心身の状態をとらえようという研究です。運動中、人の心拍は動きに合わせて大きく変動します。一方で、じっとしていても緊張すると心臓がドキドキすることがあるように、心拍数は精神の状態によっても変化します。つまり、試合中の心拍数というのは、運動によっても上下するし、緊張やリラックスの度合いによっても変動する。その二つの成分を切り離して、心理的要因による心拍数の変化をとらえるのがこの研究の狙いです。

具体的には、まず練習時にhitoeで被験者の体幹部の加速度と心拍数を計測します。体幹部の加速度というのは、運動の強度(激しさ)をおおよそ表しています。そして、その加速度と心拍数の変化との関係を表すモデル(関係式)を被験者ごとに作成しておきます。本番でも同様に体幹部の加速度と心拍数を計測するのですが、この本番時の加速度から、あらかじめ作成したモデルで心拍数を予測して、その予測値と実際の心拍数の差分をとるのです。この差分が、単純に運動強度によらない成分、つまり本番ならではの心理状態を反映した成分ということになります。

その様子をグラフに示したのが、図1です。横軸が加速度から算出された運動の強度で、縦軸が心拍数を計測したもの。これは、ある被験者の野球の練習時と試合時の運動強度と心拍の関係を示した図です。練習時(赤・青・緑)に比べて、試合時には同じ運動強度でも相対的に心拍数が上昇していることがわかります。


さらに、図2は試合中の加速度データからの心拍数の予測値と実測値の差分を時系列で追ったものです。試合が近づくにつれ心拍数が上がっているのがわかります。ブルペンで投げたり、登板したりというように運動をしているときだけでなく、登板を終えてベンチで見ているときですらイベント(試合が動きそうな場面など)に応じて心拍数が上昇しているのが見てとれます。これは、じつは柏野さんのデータなんですが、試合で投げるのはなんと2試合目、しかも、東京大学の中澤公孝教授が研究のために桑田真澄さんを含めて結成した野球チーム「Tokyo 18’s(エイティーンズ)」で登板するとあって、かなり緊張されていたみたいですね(笑)。


柏野 そりゃ緊張するでしょう(笑)。なにしろ、桑田さんをはじめ、まわりは元プロ野球選手やハイレベルな野球経験者ばかり。わずか1点差で勝っている状況で、ストライクが入らなければ試合を壊しかねないという場面での登板でした。そもそも、ピッチング練習だけは何年もしていたけれど、実戦経験はほとんどなかったわけですから。

井尻 そんな野球人、いないですよ(笑)。2試合目でいきなり桑田さんと一緒に試合に出るなんて。度胸がありますねぇ。

柏野 自覚としては、あがっているというよりも、とにかく動きが硬かったね。ピッチャーゴロを捕ってファーストに投げるとき、普段ならまずやらないのに、ショートバウンドさせてしまったのには自分でも驚きました。ただ、まだ人生で4試合しか投げていないので、試合になるといつもこういう状態になるのか、比較のしようがないのだけど。

井尻 このときは、投球の間合いが異様に速くなってましたね。キャッチャーから返球をもらうと、キャッチャーもまだ座ってないし、バッターも準備ができてないのに、もう投げようとしてる。ファーストから僕が、「ゆっくりでいいですよ」と声を掛けたのだけど、全然、耳に届いていないみたいでした。

柏野 自覚はまるでなかったなぁ。ちなみに、心拍数は220から年齢分を引いた数値が1分間の心拍数の限界と言われています。私の場合は170くらいだから、データを見てわかるように、登板中はほぼ上限に達している場面もあり、ちょっと危なかったですね。

それから、普段の練習なら100km/h程度の球を100球投げても疲れないのに、この日はわずか二十数球かそこらの投球でヘロヘロになりました。つまり、運動強度ではなく、緊張によって心拍数が上昇したことでエネルギーを消費したのだと思います。いずれにしても、ここまで心拍が上がってしまうと、パフォーマンスは下がります。

ベストパフォーマンスを生み出す心身の状態を探る

井尻 一方で、図3は僕のグラフなのですが、まったく緊張していないのがわかります。緊張していないというか、やる気がないというか(笑)。変動が少ないんです。

—緊張されていないという、自覚はあったのですか?

井尻 いや、わからないです。とくに2打席目(15時45分頃)は、僕が打てば勝つし、凡退すれば負けるという重要な場面でした。それなのに心拍数は上がっていない。結局、気の抜けたスイングをして凡退して負けました。がんばらなきゃという気持ちはあったのですが、この日のパフォーマンスは良くなかったですね。気持ちがゲームに入っていかないというか、計測がうまくいっているかがずっと不安でした。

柏野 ベンチに座って、井尻君の打席を見ていたこっちの心拍は上がってたのに(笑)。不思議なことに、「打ってくれ!」と、思ったわけじゃないんですけどね。むしろ、登板が終わって、抜け殻状態でした。ですから、この結果は意外です。

井尻 一方、僕は僕でナゾで(笑)。この日は、子どもの頃から大ファンだった桑田さんだけでなく、相手チームには元読売巨人軍の三澤興一投手もいらしたのです。小学生の頃、テレビで高校野球を観戦していて、当時、帝京高校のエースだった三澤さんの勇姿を見て憧れていました。今回の試合で初めてお会いして、心の中では「おーっ!」と思っていたのに、心拍数は上昇していないのです。心拍が上がったのは、守備でヒヤッとした場面だけ。ファーストで守っていて、ボールが飛んできて、危ない、と思ったときです。

—さきほど、試合に入っていけなかった、とおっしゃいましたが、「試合に入る」とはどういう状態なのですか?

井尻 僕もよくわからないのですが、多くのスポーツ選手は、試合では適度な緊張が必要だと言います。緊張の先に、いい状態が訪れると。気持ちが高まるというか、昂ぶるというか。この日は、それがなかった。現役のときも、すごく気持ちが入っていいパフォーマンスができた試合は印象に残っています。つかみどころのない良い状態があって、意図的にはその状態を再現できない。

きっとレベルの高いプロのアスリートも、共通の悩みは持っていると思います。だからこそ、ウォーミングアップのメニューをきっちり決めて、儀式のように同じスケジュールを踏襲してから試合に臨む選手がいるのでしょう。少しでも環境の変動を減らそうとしているのかもしれません。

—その日の調子というのは、日々の練習でも違いますよね?

井尻 パフォーマンスという意味では、全然違います。昨日はよかったのに、寝て起きてみたら、別人のようにできなくなっていたりする。かと思うと、昨日までできなかったことが、突如できるようになっていたり。そういう日々の変動を、生体情報から解析できるようになればと思っています。

1%でもパフォーマンスを上げることに貢献したい

—類似の研究はないのでしょうか?

井尻 ほとんどないですね。統制された環境下で、加速度の情報、すなわち体の動きの情報から何メッツ(Metabolic equivalents:運動時の代謝の指標)消費したかといった運動評価の研究はありますが、実環境の中で、打ったり走ったりという多種多様な要素の中から、メンタルの変動を捉えた研究はごく少数です。そもそも、従来は計測自体が難しかったですから。近年開発されたhitoeや各種ウェアラブルセンサーにより、運動時の生体情報の取得が可能になったからこそ、こうした研究が可能になってきたのです。

柏野 講演している場面など、安静時の心拍変動から交感神経と副交感神経の働きを抽出して、その人の緊張状態を見るという研究は古くからあります。しかし、それらの手法はスポーツのように激しい動きを伴う場面では使えません。

一方、プロのスポーツチームなどが、心拍などの生体情報を計測して、代謝や疲れ具合など、フィジカルな指標として使っているケースは増えていますし、メジャーリーグでは「セイバーメトリクス」といって、打撃や守備、走塁などの成績を統計学的な手法で客観的に分析して、選手の評価や戦略に役立てています。このようにスポーツにおけるデータの活用の気運は高まっていますが、一方で、メンタルにまで踏み込んだデータ活用は始まったばかりでしょう。したがって、計測の新しい手法を開発するというのも、我々の研究テーマの一つになっているのです。

そして、データを取り溜めることができれば、どれくらいの心拍数の状態のときにベストパフォーマンスを出せるのかといったことまで解析できる可能性があります。これまで逸話的に語られてきたことを、データから読み取りたいですね。ただし、メンタルというのは、気温や湿度、天候、起床時間、食事、試合相手など、じつにさまざまな要因の影響を受けることから、それらを分離して適度な緊張状態を見つけ出すには相当数のデータが必要になります。そのため現在は、日々、データを取り溜めているところです。

—今後の研究の展開をお聞かせください。

井尻 じつは僕自身は、この4月からもともといた東京大学の中澤公孝教授の研究室へ戻って、こちらの研究所と共同でSports Brain Science Projectを推進していく予定です。ちなみに中澤先生も、桑田さんの草野球チーム「Tokyo 18’s」のメンバーの一人です。

まずは、計測によって最適なパフォーマンスをするための条件を見出し、それをもとに、良い状態に持っていくためのメソッドを探ります。それによってアスリートのパフォーマンスを1%でも高めることができれば成功と言えます。

柏野 100m走を10秒で走る人の記録を0.1秒でも縮めるというのは、大変なことですからね。球速だって、自己ベストを1km/h超えるのは想像以上に大変です。我々の研究成果により、安定してアスリートのパフォーマンスを向上できれば大きな前進です。

(取材・文=田井中麻都佳)


柏野 牧夫 / Makio KASHINO, Ph.D. [ Website ]
1964年岡山生まれ。1989年、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。博士(心理学)。 現在、日本電信電話株式会社コミュニケーション科学基礎研究所上席特別研究員・スポーツ脳科学プロジェクト プロジェクトマネージャー、東京工業大学工学院情報通信系特任教授。 専門は心理物理学・認知神経科学。著書に『音のイリュージョン』(岩波書店、2010)、『空耳の科学』(ヤマハミュージックメディア、2012)他。

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