SPECIAL CONTENTS 「勝てる脳」のきたえ方 「心」と「技」に脳科学で迫る 連載第3回 (後編) | 2016.5.30

生体情報から、心身の状態を探る(後編)

野球人としての経験を糧に未知の領域を切り拓く

大学時代は東大野球部に所属し、主将も務めたことがある井尻哲也さん。幼い頃から野球一筋の人生を歩む中で、つねにトップを目指して「うまくなりたい」と願い、日々練習に励んできた。研究者の道を選んだいま、自らの体験を生かして、サイエンスの側からスポーツ技術の向上の方法論を探っている。


トッププレーヤーとの差を感じ続けてきた学生時代

—井尻さんは、東大野球部で主将をなさっていたそうですね。いつから野球を始められたのですか?

井尻 小学2年のとき、当時住んでいたつくば市の少年野球チームに入ったのがきっかけです。関東大会に出場するような強豪チームでしたが、先輩たちが強かったので、ピッチャーとして試合に出られるようになったのは6年生から。そのまま地元の公立中学、公立高校と進んで、大学まではほぼ野球しかやっていません。

ただ、野球で飯を食うのは厳しいかな、と薄々感じていました。というのも、中学のときに茨城県の強化チームに入ったのですが、県内から集まってきたトップレベルの選手たちは、体格もスキルも僕とはまるで違っていましたし、高校でも県大会ベスト16止まりでしたから。ただ、能力を伸ばして大学でもまだやれるんじゃないかという気もしていて、自分の力を試したかったのです。そこで東京六大学野球にチャレンジすることにしました。

—それが東大進学の理由ですか?(笑)

井尻 語弊のある言い方かもしれませんが、野球に比べたら、大学入試のほうが簡単ですからね。勉強しすぎても頭を怪我することはありませんし(笑)、受験は訓練や努力で乗り越えられる。一方、野球は練習してもうまくなる保証がないどころか、怪我や故障で選手生命を絶たれることもあります。限られた問題に決まった解答のある入試のほうが、簡単だということです。そして、理科二類から農学部へ進学しました。本郷の農学部のキャンパスの側に練習場があるのです(笑)。

肩の故障を機に、スポーツサイエンスの研究者の道へ

井尻 でも結局、大学でもトッププレーヤーには敵いませんでした。中学生の頃から、ただひたすら、どうやったらもっと上手くなれるのか、さまざまな練習を試してきたけれど、思うように技術を上達させることはできなかった。それどころか、大学で早々に肩を故障して、全力でボールを投げられなくなりました。野球選手として、満足にボールを投げられないというのは、本当に悲しいことです。

そのときに感じたのは、従来の方法論の限界です。学生という限られた期間内に筋力をつけて、身体を大きくするだけでなく、スキルを大幅に向上させる必要があります。しかしスキルを向上させるための知見があまりに乏しく、結局多くの場合、練習量を増やすことで問題を解決しようとすることになります。たくさん練習をすることの重要性を否定はしませんが、それですべてが解決するほど甘い世界ではないのも事実です。練習量を増やすということは、同時に怪我のリスクが大きくなることにつながります。実際東大野球部の人の多くは、故障を抱えているんですね。

よく、一流になるためには1万時間は練習しなければならない、と言いますが、それはあまりに単純化した話だと思います。4年間で見違えるほど上達する人もいれば、どれだけトレーニングを積んでも、不器用なまま動きの個性がほとんど変わらない人もいますから。そこにサイエンスで切り込み、新しい知見を生み出し、技術の上達の方法論に役立てられないか、というのが僕の研究のモチベーションになっています。

—東大野球部という環境はいかがでしたか?

井尻 東大野球部員の多くは、野球をやるために東大を目指した人たちです。ご存知のように、入学時点で他大学との実力はまったく違います。体格も全然違って、他大学の学生はユニフォームがパンパンに張っているのに、東大生のユニフォームには余裕がある(笑)。しかし、努力することにはものすごく長けているし、本当に練習をたくさんして、力をつけていきます。しかも、皆、勉強熱心なので、練習の工夫もするし、さまざまな情報を集めて技術を向上させようする。それでも結局、4年間という限られた時間の中で多くは結果を出すことなく卒業していく。

僕のときは、4年間で5勝80敗という成績で、かろうじて最終学年の秋に2勝しましたが、中には4年間、一度も勝ち星をあげることなく卒業する代もあります。それだけに、リーグ戦で勝つことの喜びは筆舌に尽くしがたいものがありますし、社会的インパクトも大きい。東大が継続的に勝てる集団になれば、そこで蓄積された知恵は必ずスポーツ界にとって価値のある知見になるはずです。限られた時間、戦力の中で何をすればより勝ちに近づけるのかを考え続けるのは楽なことではありませんが、ぜひそんな集団になってほしいし、そこに研究成果が少しでも役に立ってくれればと思っています。

—肩の故障もあって、結局、研究者としての道を選ばれたわけですね。

井尻 そこも大きな理由の一つです。修士課程では、当時、東大にいらした渡會公治(わたらいこうじ)先生の下で、スポーツ医学の研究をしていました。僕自身、故障に泣いたので、スポーツによる怪我に関連した研究から始めて、博士課程でニューロリハビリテーションの研究をされている中澤公孝教授の研究室へ移り、そこでスポーツサイエンスの研究を立ち上げました。その後、柏野さんと出会い、2014年8月にポスドクとしてNTTのCS研に移りました。

桑田真澄さんの動きの美しさに迫りたい

—2016年4月からは中澤研究室で助教として研究を続けられるということですが、中澤研には、桑田真澄さんが研究生として在籍されています。その縁で野球チームを結成されたわけですね。

井尻 すごいことですよね。研究をしていなかったら、桑田さんと同じチームで野球をするなんて機会は絶対になかったと思います。

柏野 人生、どう転ぶかわからないよね(笑)。私も研究をやっていなかったら、絶対にお会いできなかった。でも、井尻君ならチャンスはあったんじゃない?

井尻 いや、それこそ桑田さんは野球業界のトップの方ですから、六大学野球で負け続けているような選手が会えるチャンスなんてそうそうないですよ。桑田さんは東大野球部の特別コーチをなさっていた縁で中澤研に入られたのですが、そのとき僕はすでに卒業していましたし。ちなみに、小さい頃から桑田さんの大ファンで、いまでも実家には小学生の頃に使っていた桑田さんの下敷きがあります(笑)。

—実際にご一緒にプレーされてみて、いかがですか?

井尻 あらゆる点で含蓄に富む方なのですが、とにかく動きが興味深いですね。まったく揺れないんですね。動きが止まっているように見えるというか、バタバタした成分がまるでない。

柏野 ざらついた感じはまるでないよね。表面がなめらかな物体の質感を眺めているような。

井尻 歩いているだけでも澄み切ったような動きだし、グランドに落ちている石ころを拾ってポイっと投げる動作をするだけでも、思わず見とれてしまう(笑)。いったい、桑田さんの動きの何の成分に僕らは感動しているのかと思ってしまいますね。

柏野 絵になるとは、こういうことかと思うね。ギャラリーも対戦チームのメンバーも、皆、見とれてしまうのです。ちょっと常人は真似できない達人の動きというか、天性のものを感じます。

—身体つきも違うのですか?

井尻 身長はそれほど大きくないのですが、身体つきはまるで違います。実際にどうかはわかりませんが厚みがあって、丸太のように太く見える。ちょっと変な言い方ですが、筋トレなんかで作り上げた身体というより、海や山の労働で自然に出来上がった身体みたいな。小学生の頃、それこそ、桑田さんのフォームを鏡の前でめちゃくちゃ真似したのですが、いくらフォームを真似ても、同じように動かすことはできませんでしたね。

柏野 動きが滑らかで、無駄な力が一切入っていないように見えるよね。それでいて、全身に神経が通っていて、じつに正確です。初めてキャッチボールをした際も、塁間くらい離れた距離から、私がグローブで構えた位置まで正確にスパーンと球が飛んできてびっくりしました。でも、見た目はじつに軽々としている。

井尻 放たれた球の質感もまるで違います。何一つ引っかかるようなノイズがありません。しかも適応能力が異様に高い。プロ野球は硬球ですが、草野球は軟球で、球の重さの違いはわずか10gほどですが、扱うときの感じはまるで違うのです。普通の人は慣れるのに時間がかかりますが、桑田さんはすぐに切り替えてパッと正確に投げてしまう。

柏野 「投げづらいな」とか言いながらも、すぐに対応してしまうからすごいよね。結局、精度がいいというのはそういうことなんだと思います。機械のようにまったく同じができるというのは、実際の試合ではあまり意味がなくて、むしろ、マウンドの状態の変化や日々の調子に合わせて、結果として同じようなパフォーマンスが出せるように調整する能力こそが大事なのだと思います。だからご本人も、現役時代はフォームや力の入れ具合などを毎試合マウンド上で微調整されていたとおっしゃっていました。状況を把握する能力と、状況に応じて修正する能力に非常に長けているのでしょう。

人の動きもよく見ていて、一瞥して、「前より股関節の動きがよくなりましたね」といった具合に、適切なアドバイスを下さいます。

井尻 いずれは、動きの美しさの研究もしてみたいですね。イチロー選手などもそうですが、動きの美しさとパフォーマンスの相関を解き明かしてみたい。それがわかれば、スポーツの適正診断や怪我の予防などにも使えるかもしれません。これからも、自身の野球の経験を糧に研究に邁進していきたいと思っています。

(取材・文=田井中麻都佳)


柏野 牧夫 / Makio KASHINO, Ph.D. [ Website ]
1964年岡山生まれ。1989年、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。博士(心理学)。 現在、日本電信電話株式会社コミュニケーション科学基礎研究所上席特別研究員・スポーツ脳科学プロジェクト プロジェクトマネージャー、東京工業大学工学院情報通信系特任教授。 専門は心理物理学・認知神経科学。著書に『音のイリュージョン』(岩波書店、2010)、『空耳の科学』(ヤマハミュージックメディア、2012)他。

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