SPECIAL CONTENTS 「勝てる脳」のきたえ方 「心」と「技」に脳科学で迫る 連載第4回 (前編) | 2016.5.30

見て、動くための脳のはたらき(前編)

かくも複雑な脳の視覚系のしくみ

私たちは対象物の動きを見て、それを意識して身体を動かしていると感じているかもしれない。しかし実際には、瞬時の判断と動きが求められるスポーツでは、意識に上ってから動いたのでは間に合わない。ではなぜ、身体は反応することができるのか。脳の視覚系のしくみを探りつつ、錯覚など、視覚の特性を知ることの重要性について語る。


なぜ、イチロー選手はコンタクトレンズをしていないのか

—すでにこれまでお話されてきたように、スポーツには、無自覚で自動的な動きを司る「潜在脳機能」が不可欠だということですが、今回はスポーツと脳の関係について、さらに掘り下げてお聞きしたいと思います。

柏野 たとえば、「見る」ということ一つとっても、脳の複雑な処理の賜物です。というわけで、本日は視覚の話をしたいと思います。ところが、これがなかなかに複雑で、一筋縄ではいかないんですね。野球では、「球をよく見て打て」などと言われることがあります。しかし、そもそも時速150kmの球をよく見てから打ったのでは、絶対に間に合いません。モノが見えるのには、処理に0.2秒から0.3秒くらいの時間が必要で、そこからバットを振るのにも同じくらいの時間がかかる。これではボールは通り過ぎてしまいます。

ではなぜ打てるのか。ここで重要になるのが、意識的ではないプロセス、すなわち潜在脳機能です。関係しそうなものには二つあって、第一は視覚情報に対して身体が自動的に動くこと、そして第二はボールの軌道の予測です。これにはリリース直後のボールの軌道からその先の動きを予測するだけでなく、投手がボールを投げる前のフォームからの予測も含みます。

かつてイチロー選手が、ワンバウンドのボールをヒットにしたことがありました。その後のインタビューでイチロー選手は、「頭では止めようと思ったけど、身体が勝手に反応した」と答えていたように記憶しています。潜在脳機能のプロセスというのは、それくらい反応が速く、意識よりも先に動作するのです。

イチロー選手に関して、もう一つ興味深いのは、視力矯正をしていない点です。東京ヤクルトスワローズの山田哲人選手も視力は1.0以下だそうですが、視力矯正をしていません。イチロー選手は、医師に矯正を勧められて、一度、コンタクトを入れたことがあるそうですが、すぐにやめてしまったという。その際、「たとえば、ピッチャーのここに書いてる文字を読む競技なら(コンタクトは)必要だけど、野球はそういうものじゃない」というようなことを言っていました。つまり、はっきり見えることと、ボールに反応できることは別問題だということを、イチロー選手も山田選手も経験的に知っているのでしょう。

そこで、私自身、メガネを外して野球の練習をしてみました。視力は両眼とも0.1くらいしかなく、ボールはぼんやりとしか見えないので当てずっぽうでやっている感覚なのですが、その感覚とは裏腹に、ボールを捕るのも打つのもほとんど支障なくできるのです。見ていたチームメイトも、いつもと何も変わってないと言っていました。ただ、困ったのは止まっているボールが見えないこと。ボールが草むらに入ってしまうと、それこそ目の前にボールが落ちていたとしても気づきません(笑)。

動体視力を鍛えると、スポーツ向上に役立つ?

—よく、スポーツの技術の向上には、動体視力を鍛えるといい、と言われたりしますよね?

柏野 それがそう簡単でもないのです。そのあたりのことを、少し脳科学の観点からお話したいと思います。

じつは脳の視覚の情報処理には複数のルートがあります。まず、目の網膜が光を受けると、その光は電気信号へ変換され、視神経を通じて、脳の視床にある外側膝状体へ伝えられます。そして、外側膝状体から後頭葉にある第一次視覚野(V1)へと情報が伝達されます。さらにここから、大きく分けて二つの経路を通ることになります。

図1 紫色が視覚系の腹側経路、緑側が背側経路を示す。
出典:ウィキペディア

一つは腹側経路。V1から大脳皮質の下の方を通ります。もう一つが背側経路といって、上の方を通ります。そして、それぞれの経路の情報処理が別の機能を担っているのです。腹側経路が対象物の色や形を処理するのに対して、背側経路は対象物の空間的な位置や動きを処理します。このように、網膜から入った情報というのは、脳の中でバラバラに処理され、最終的に統合されて初めて、「右から左に黄色のポルシェが走り去った」といったことを我々は認識できるのです。

だからときには、奇妙なことが起こります。たとえば、脳出血などで脳の背側経路が壊れてしまうと、色や形は認識できるのに、動きだけがわからなくなってしまうのです。これは、視覚性運動盲(Akinetopsia)と呼ばれる症例で、視覚性運動盲の方は、急須でお茶を注ぐときに、お茶を湯のみから溢れさせてしまったりします。動きが見えず、コマ送りのように見えるので、適当なところで注ぐのをやめることができないのです。形や色がわかることと、動きを見ることは、脳の別経路が担っているんですね。

さて、では、スポーツにおいて何が大事かといえば、背側経路の動きを処理する機能になります。ところが、この動きを捉える視覚系も、一筋縄ではいきません。対象の動きに応じた身体の動きを生成するための視覚と、「対象が動いて見えた」という意識を生成するための視覚は、また分かれているからです。

身体の動きを生成するための視覚にもいろいろありますが、その一つが、我々の研究部の五味裕章氏らが発見した追従性腕運動(Manual Following Response;MFR)です。実験では、参加者にターゲットに手を伸ばすというタスクをやってもらいます。その運動の途中で、ターゲットは動かないけれど、背景全体が突然一方向に動くのです。すると面白いことに、背景の動きにつられて、手が意図せず動いてしまう。意識的につられまいとしても、どうしても手がつられて動きます。実験参加者の方に聞くと、つられて動くときは、自分の意思ではなく、何者かに自分の手を引っ張られるように感じる、と言っていました。

この手の動き出しの時間を測ってみると、背景が動き始めてから、0.1秒もかかりません。一方、光が点いたらなるべく速く反応してくださいと言うと、運動開始にかかる時間は0.2〜0.25秒くらい。これを随意運動と言いますが、MFRのような反射的な応答は、それよりはるかに速いのです。

—それがまさに、潜在脳機能のはたらきによるというわけですね?

柏野 ええ。しかも面白いことに、背景のパターンが粗くて、素早く動くほうが手はつられやすい。細かいパターンの背景がゆっくり動いても、手はあまりつられません。一方、はっきりと動いて見えるのは、細かいパターンがゆっくり動くときになります。一口に動きを捉えるといっても、潜在的なものと意識に上るものは別のメカニズムだということがわかります。

 

さて、すっかり前置きが長くなりましたが、では、動体視力を鍛えるとスポーツ技術の向上に役立つかというと、答えはそう簡単ではありません。何をもって動体視力というかにもよりますし、単純に動いている細かい字を読む訓練をしたところで、動きに対して身体がうまく反応する能力を鍛えることにはならないでしょう。はっきり見える能力を鍛えるのではなく、ぼやけていても、素早く反応して適切に動くための能力を鍛えるほうが賢明です。

—じつは網膜の病気で右目の中心視を失ってしまったのですが、以来、棚から落ちてきたものを瞬時につかめるようになって驚いています。

柏野 まさにそれです。中心視というのは空間的な解像度は高いけれど、動きに対する感度は相対的に低い。一方で、周辺視はボケているけれど、動きに対しては敏感なのです。スポーツで重要なのは、中心視よりもむしろ周辺視なんですね。サッカーなどでも、視野の広さとか周りの選手の動きを見ることが非常に大事ですよね。

意識の後付け、錯覚のしわざ

柏野 一方で、脳の働きの全容はまだまだ解明されていません。動きの知覚については、V1を経由して背側経路で順次処理されるというのが一般的な見方なのですが、実際には、網膜から入った情報がV1を経ずに、上丘や外側膝状体などからダイレクトに動きを処理する高次視覚野に行くといった経路も複数存在するようなのです。

—視覚処理において、バイパス経路による近道が複数存在するということですか?

柏野 そうです。パイパスから入った情報はあまり詳細ではないのだけど、素早く伝達される。そういう情報が、反射的な身体の動きの生成に用いられるのかも知れません。そもそも、私たちが、ボールが飛んできてバットにこんなふうに当たったなどと思っているのは、実際にことが起こった後の話なのです。つまり、後付け的に思っているにすぎないんですね。

たとえば、ホームランを打った際に、選手が試合後のインタビューなどで、「ボールが止まって見えた」、などと答えることがあります。これはもちろん、本当にボールが物理的に止まったわけではないのですが、主観としては正しいのでしょう。そして、止まったから打てた、と本人は思っているけれど、じつのところ打てたから止まったように感じたのかもしれない。実際、選手が「ボールが止まって見えた」と言うのは例外なく、打てたときですからね。「ボールが消えた」というのは空振りしたとき。見逃しても消えません。このあたりの因果関係はとても複雑です。なぜなら、人間は結果から、脳内で辻褄の合う解釈を与えているからです。

購買行動でも、なぜAではなくBを選んだのか理由を聞くと、多くの人は「Bのほうが安くて性能もよかったから」などと答えますが、それもじつは後付けであるという実験結果が多数出ています。そうしたことが、今日の脳科学によって解き明かされつつあるのです。

—それこそ、意識が後付けであることは意識できないわけですから、実感できませんね。

柏野 そうですよね。もう一つ、見え方には錯覚も大きく関与しています。私たちは日常生活を送る中で、それほど錯覚を意識する場面はないかもしれませんが、実際には私たちの見ている世界というのは錯覚だらけなのです。たとえば、カーブイリュージョンをご存知ですか? 実際にお見せしましょう。

まずはボールをまっすぐ追いかけて見てください。ボールはまっすぐ落ちてますよね? では、今度は落ちているボールを追いかけている途中で、横に視線をずらしてみてください。

—あぁ、視線をずらすと球が曲がりますね。

柏野 はい、これは、Shapiroらのグループが2009年に報告した錯覚です。ボールの軌道自体は垂直方向で変わらないのですが、どうしても曲がったように見えてしまう。その曲がりを生み出している犯人は、中心視と周辺視の見え方の差と、眼球運動です。そう考えると、変化球なども、実際の物理的な動き以上にバッターの脳が曲げてしまっている可能性はあります。

興味深いことに、プロ野球の選手に聞くと、ピッチャーの投げたボールの見え方はじつに多彩です。あるピッチャーのスライダーは垂直に曲がるとか、あの人の直球はブワーッと大きくなって迫ってくるとか、あるいは逆に球がどんどん小さくなって気づいたらキャッチャーミットに収まってしまうとか、まるでアニメの魔球かと思うような話を耳にすることがあります。物理的にはあり得ませんが、主観でそう感じられるというのも、錯覚によるものなら説明がつきます。

たとえば、元中日ドラゴンズの山本昌投手は球が速い方ではありませんが、あるバッターからすると、「昌さんの球が一番速い」という。「球が地面から浮き上がってくる感じで、非常に捉えにくい」と言っていました。球速のわりに回転数が多く、予測よりも浮き上がって感じられるのが一つの理由でしょう。また、あの独特のフォームも予測を狂わせているに違いありません。プロ野球のバッターが学習しているピッチャーの動きやボールの挙動の分布から大きく外れているのでしょう。

要するに、単純に球が速い/遅い、コントロールがいい/悪い、ということだけが、打たれる/打たれない、を左右しているわけではないということ。予測を裏切るというのが重要なポイントになります。ただし、この予測は、あくまでも無自覚的、潜在的な脳のはたらきによるものです。頭でわかっていても身体は思うようには動いてくれません。

—なるほど……錯覚を利用したり、予測を裏切るような動きをしたり……。スポーツ技術の向上において視覚の特性に精通することがいかに重要か、よくわかりました。

(取材・文=田井中麻都佳)


柏野 牧夫 / Makio KASHINO, Ph.D. [ Website ]
1964年岡山生まれ。1989年、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。博士(心理学)。 現在、日本電信電話株式会社コミュニケーション科学基礎研究所上席特別研究員・スポーツ脳科学プロジェクト プロジェクトマネージャー、東京工業大学工学院情報通信系特任教授。 専門は心理物理学・認知神経科学。著書に『音のイリュージョン』(岩波書店、2010)、『空耳の科学』(ヤマハミュージックメディア、2012)他。

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