SPECIAL CONTENTS 「勝てる脳」のきたえ方 「心」と「技」に脳科学で迫る 連載第5回 (前編) | 2016.10.19

スポーツや医療に革新をもたらす「hitoe」(前編)

着るだけで生体情報が取得できる機能素材の可能性

「Sports Brain Science Project」では、スポーツ時の心拍数や筋電などの生体情報を計測し、心身の状態に迫ろうとしている。その計測の中で重要な役割を果たす計測ツールの一つが、NTTが東レと共同で開発した機能素材「hitoe」だ。導電性の機能素材hitoeを組み込んだウェアは、ただ着るだけで心拍や筋電などの生体情報が取得できるというもの。開発者であるNTT物性科学基礎研究所の塚田信吾氏と中島寛氏に、hitoeの開発の経緯と特徴を聞いた。


生体に馴染む電極の開発を目指して

—hitoeの開発の経緯を教えてください。

塚田 もともと私は、脳や脊髄の中に刺す超小型の電極を使って、脳梗塞や脊髄損傷のような治りにくい病気に対して、神経の働きを電気的に補完することで機能回復を図るという治療法の開発を手がけていました。血管の破裂や怪我などで切断されてしまった神経回路を物理的に正確につなぎ合わせることは難しいので、電気的に橋渡しして機能を回復させようという試みです。実際に、動物実験などで、動かなかった四肢が動かせるようになるといった成果も出ていました。

ところが、この方法には技術的に大きな問題がありました。脳や脊髄に刺す電極に一般的には金属製の針が使われていて、金属ですから柔軟性がなく、電極を刺した箇所が炎症を起こして組織を破壊してしまい、逆に損傷を深めてしまうのです。これをなんとか解決できないかと考えついたのが、外科手術で使用するシルクの糸を導電性高分子のPEDOT-PSSという材料でコーティングするという方法です。いまだに傷を縫合するのにシルクの糸を使う外科医がいるように、シルクであれば生体に馴染みますし、強度もあり、扱いやすいことから電極の基材に使えると思ったのです。

一方、導電性高分子はさまざまな可能性を秘めている物質ですが、課題もありました。PEDOT-PSSは水にとても弱いのです。最初は、シルクの表面に電解重合という方法で電気的にペタっとくっつけていたのですが、食塩水の中では保たれるものの、水に入れるととたんに溶け出して電極が壊れてしまう。失敗を繰り返す中、導電性高分子に関して研究の経験がある中島さんに相談したことからhitoeの開発が始まりました。

中島 実は、導電性高分子と呼ばれるものには2種類あるんですね。一つは、2000年に白川英樹先生がノーベル化学賞を受賞されて注目を集めた有機溶媒に溶けるタイプ、いわゆる導電性プラスチックです。私はもともとこの材料の合成の研究を手がけていました。一方、塚田さんが悩んでいたのは、水に馴染むタイプの導電性高分子です。生体に使うためには水に馴染む性質が不可欠ですが、水や細胞の中に入れると溶け出して流れ出てしまう。糸や繊維にくっつけて、はがれないようにするにはどうすればいいのか、塚田さんとずいぶんあれこれアイディアを出し合いました。

塚田 実際に開発できれば、身体の中に入れることもできるし、臓器に貼り付けることもできる。その可能性の大きさに夢が膨らみ、お互い夢中になって、半ば楽しみながら開発を進めていましたね。

—最初はずっとシルクの糸で研究を進められていたのですか?

中島 そうです。ちょうど塚田さんから相談される少し前に、私はオーストラリアでPEDOT-PSSを用いた研究を1年間手がけていたことがあり、その知見を使って何を混ぜればいいのか、いろいろ試してみることにしました。最終的に、ある接着性の分子を混ぜることで、溶液に浸して加熱するだけでシルクの糸にPEDOT-PSSをうまくコーティングする方法を見出したのです。2012年9月のことです。

塚田 さっそくこの方法で糸状の機能素材を開発し、これを電極に用いて動物実験をしたところ、長期間安定して神経の信号が記録できることを確認しました。さらにこの方法なら、糸だけでなく繊維にもPEDOT-PSSをくっつけることができるだろうと。繊維にコーティングでき、しかも水に溶け出さないとなれば、洗濯もできる。洗濯ができれば、病院のウェアとして検査や健康診断に活用できるほか、在宅などの遠隔医療にも使えるかもしれない、と夢がどんどん膨らんでいきました。

東レとの共同開発でウェアとして実用化へ

—塚田さんは、もともと外科医でいらして、その後、基礎医学の研究者に転身されたそうですね。

塚田 ええ。臨床医に携わってきた経験から、患者さんへの負担の少ない生体電極の必要性をずっと感じていたのです。たとえば、心機能の検査などで心電図を測る際には長時間電極を肌に貼り付けておく必要があるのですが、とくに高齢者やお子さんが電極を貼り付ける際のテープやジェルでかぶれたり、化膿させて感染症を引き越したりするのを見ていて、とても気の毒に思っていました。この繊維素材を活用して皮膚に密着できる電極をつくれば、フィット感や通気性に優れた素材で計測ができるようになり、患者さんの負担を大幅に減らせると思ったのです。

そこでシルクだけでなく、合成繊維も含めたさまざまな布で試してみることにしました。そのうちの一つにユニクロが販売しているインナーのシルキードライに電気が流れる布をつけると、非常にうまく心拍などの生体信号が計測できたのです。そこで下着型に絞って共同開発のパートナーを探していたところ、偶然にも、シルキードライの素材を提供されている東レさんとご縁を結ばせていただくことになったというわけです。

—最初は医療用として検討されていたわけですが、いつからスポーツウェアとしての開発が始まったのですか?

塚田 実は、比較的早い段階からスポーツウェアとしても活用できるのではないかという話はしていたのです。というのも、私も中島さんもスポーツ好きで、実際にプロトタイプでランニング時の心拍数を測ったりして、その可能性を探っていたのです。ランニング中の心拍数が見えると、ペース配分が楽になり、トレーニングに役立つと考えていました。

hitoeの製品化に際し、ゴールドウインというスポーツウェアのメーカーと話をしたことも実用化への弾みになりました。私は山登りが趣味なのですが、ゴールドウインの開発部の人々が皆、山好きで、ずいぶん盛り上がりながら開発を進めることができました。並行して、SBSプロジェクトの柏野さんや木村さんとも早い段階から話を進めていたこともあり、スポーツウェアとしての実用化が一気に進んだというわけです。

その結果、2014年1月に新しい機能素材としてhitoeをリリースし、12月にはゴールドウインからC3fit IN-pulse(インパルス)という、国内では初となる、着るだけで心拍が測れるウェアラブルセンサー機能つきのトレーニングウェアが発売されました。現在はさらに、新機能の追加など、用途の広がりに合わせて進化させているところです。

中島 現状、販売しているのはコンプレッションインナーといって、肌に密着したタイプのウェアなのですが、もう少しゆったりしたものなど、体型や用途に合わせて選択肢を広げられるように、現在、東レさんやNTTの他の研究所と連携しながら、さまざまなタイプのウェアの開発を進めています。

心拍数に加え、筋電、加速度など新機能を搭載

—hitoeは、どのような仕組みで心拍を測ることができるのですか?

塚田 心臓というのは収縮して弛緩するという動きをしますが、このとき心筋細胞が心臓の活動に伴ってわずかな電気をつくるんですね。その際、組織がいっせいに興奮することでパルスのような尖った電気の波をつくります。この電気を、心臓に近い場所2カ所の電極で挟み込むと、その電位差からパルス状の電気を捉えることができるのです。

中島 ウェアをめくってみるとわかるのですが、裏側に心臓を挟むようなかたちで2カ所、電極部分のhitoeの繊維が貼り付けてあります。ここから取得した電気信号をトランスミッターに集めて、無線でスマートフォンなどに飛ばすことで、心拍が確認できるというわけです。

ちなみに、電気を通す繊維というのはhitoe以外にもあって、製品化もされています。しかし通常は表面に銀などの金属がコーティングされていて、触った感じがゴワゴワしていて硬い感じがするものもあります。しかも銀を蒸着しているため水を弾く特性もあります。ですので肌なじみが悪く、吸水性にも欠けるのでウェアには不向きです。一方、hitoeは非常にやわらかくて、通気性、吸水性にも優れているため、スポーツウェアに最適なのです。

塚田 今年、hitoeをさらに進化させて、心電図が取れるバージョンも開発しました。つまり、心臓の電気的な活動の波形が見えるようになったのです。心電図が測れるようになると、医療用途での活用が大きく広がることになります。今年2016年の8月にhitoe電極の医療機器としての届出と登録を完了し、ついに医療用のhitoeの実用化に至りました。

さらに、筋電位が測れるタイプのものについても、すでにプロトタイプを開発していて、製品化に向けて話を進めているところです。筋電の場合も、先ほどの心拍と同様で、2つ以上の電極で筋肉の活動を測るしくみです。筋電や加速度が測れると、スポーツ計測において革新的な役割を果たすことになると思います。

中島 これは、筋電が測れるタイプのhitoeですが、このように、測りたい部位にサポーターをつける感覚で着用できるので手間がいりません。従来の筋電の計測機器は非常に高価な上に、シールで貼ったり、テープで巻いたりするので運動時にはがれやすく、また装着に手間がかかったり、さらには動きの邪魔になったりしたんですね。そもそも準備だけでも小一時間ほどかかり、非常に面倒でした。hitoeのサポータータイプであれば、パッと着用でき、しかも動きにも影響を与えないので、日常的に手軽に筋電の計測に活用できます。

—着るだけで心電や筋電が測れるようになると、どのようなことが可能になるでしょうか?

塚田 いつでも誰でもリアルタイムで計測できる、というところが最大のポイントになります。従来の計測器では、病院や実験室など統制された環境下で、しかも特殊な計測器を使って限定的に計測することしかできませんでしたが、ただ着て、スマートフォンにデータを飛ばして見ることができるようになれば、多様な環境下でリアルタイムに選手や患者さんの状態を計測できるようになります。しかも、長時間にわたってデータを取得でき、データの蓄積も可能になります。医師や研究者はもちろんのこと、アスリートや患者さん自身、監督、コーチ、医療スタッフなど、特別な専門知識を持たない人でも計測が可能になることから、日々のトレーニングや健康モニタリングなど、さまざまな使い方ができるようになるでしょう。


塚田 信吾 / つかだ しんご
NTT物性科学基礎研究所 機能物質科学研究部
主幹研究員・上席特別研究員
2010年より日本電信電話株式会社リサーチスペシャリスト、2013年同社に入社。医学博士。整形外科医から研究者に転じ、「hitoe」の開発に携わる。脳神経細胞の情報伝達に関する解明・制御の研究を専門とする。最近では、導電性高分子・繊維複合素材を核にしたウェアラブル型・埋め込み型生体電極「hitoe」の研究開発も担当。生体信号を長期計測し、疾病の予防や早期発見へ活用することをめざしている。

中島 寛 / なかしま ひろし [ Website ]
NTT物性科学基礎研究所 機能物質科学研究部
主幹研究員・グループリーダ
1997年 日本電信電話株式会社 NTT物性科学基礎研究所に入社。博士(工学)。入社以来、高分子材料やナノバイオ複合材料の設計・合成と、その物性評価の基礎研究に取り組んできた。「hitoe」の発明当初からプロジェクトに携わり、現在もhitoeウェアラブル型デバイスを用いた深層生体情報の研究開発に従事している。導電性高分子をはじめとするソフトマテリアルを活用し、新奇な素材の「ものづくり」から世の中への貢献をめざしている。

(取材・文=田井中麻都佳)


柏野 牧夫 / Makio KASHINO, Ph.D. [ Website ]
1964年岡山生まれ。1989年、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。博士(心理学)。 現在、日本電信電話株式会社コミュニケーション科学基礎研究所上席特別研究員・スポーツ脳科学プロジェクト プロジェクトマネージャー、東京工業大学工学院情報通信系特任教授。 専門は心理物理学・認知神経科学。著書に『音のイリュージョン』(岩波書店、2010)、『空耳の科学』(ヤマハミュージックメディア、2012)他。

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