SPECIAL CONTENTS 「勝てる脳」のきたえ方 「心」と「技」に脳科学で迫る 連載第5回 (後編) | 2016.10.19

スポーツや医療に革新をもたらす「hitoe」(後編)

試合時のデータから見えてきた真の姿

外科医であり基礎医療の研究者である塚田さんと、高分子材料の化学者である中島さんという、異分野の研究者の出会いから誕生したhitoe。試合時の計測などを通じて、これまで知られていなかった、アスリートの心身の状態がリアルタイムで見えるようになってきた。2020年の東京オリンピックへ向けて期待が高まる中、アスリートのトレーニングへの普及を目指していく。


さまざまな場面の生体情報から見えてきたこと

—hitoeを使った計測では、すでにさまざまなことが見えてきているようですね。

塚田  まだ限られたデータではありますが、たとえば、スポーツの試合時の緊張の度合いが、人によってどう違うのかをhitoeで計測したところ、経験や習熟度などで違うというユニークな結果が出ました。ここでポイントとなるのは、運動すれば当然、心拍数が上がるのですが、それを運動由来か緊張によるものなのかを切り分けて、緊張の成分を取り出したことにあります(第3回参照)

また、マラソンや自転車競技における、本番での最後の追い上げ時の心拍数も計測してみました。結果、尋常ではないくらいの心拍数でゴールしていることがわかったのです。これまでも実験室でのデータはありましたが、それよりもかなり高く、これ以上、心拍数が上がると危ないと言われるラインを大幅に超えていて驚きました。もちろん、アスリートは特別なトレーニングをしているので、最大心拍数を超えても、息切れすることなく力を発揮することができると言われていますが、予想以上に心拍数が上がっていたのです。こうしたデータはまさに、これまで誰も見たことのない未知のデータです。

中島 図1はゴルフの最中の私のメンタルデータです。ゴルフはメンタルがプレーに影響しやすいスポーツだと言われていますが、とくに朝の1番ホールは緊張感が高まり、お年寄りが倒れるケースも見られる言われています。そこで、実際に自分のデータを測ってみたところ、自分ではまったく緊張している意識はなかったのに、1番ホールでかなり心拍数が上がっていて驚きました。また、2番ホールのティーショットでシャンクといって、クラブのネックにボールを当ててしまい、右側に飛ばしてしまったシーンでは、しまった!と思って、ドーンと心拍数が上がっています。このホールでは、ずっとそれを引きずってプレーしているのが見て取れます(笑)。

図1 心拍変動から見るゴルフのドラマ


塚田  それから、筋電についても、リアルタイムで計測していくと、時間の経過とともに徐々に変化していく様子が見て取れます。筋肉を使っているうちに疲労して、力が入らなくなったり、突然、痙攣したりすることがありますが、そうしたパフォーマンスの低下につながる疲労の状態も可視化できるというわけです。そういう意味では、トレーニング時に筋電を測る意味は非常に大きいと思います。

中島 ゴルフのインパクトの瞬間の筋活動を見た、プロとアマチュアの違いも面白いですね。プロの場合は、インパクトの前後で完全に脱力したような状態があり、インパクトの瞬間にだけ集中して筋活動が見られるのに対して、アマチュアでは前後に無駄な力が入っているのがわかります。さらに、アマチュアの場合は、いわゆる手打ちと言って、腕を使って飛ばそうとしている。こうした違いを見るだけでも、効率的なトレーニングに活用できそうですね。

図2 ゴルフインパクトのプロゴルファー(左)とアマチュア(右)の比較


塚田 これなどはまさに、トップアスリートの身体の使い方や動かし方のコツを表す貴重なデータと言えます。トップアスリートになればなるほど力みが少なく、本当に必要な勝負のときに必要な筋だけを最大効率で動かしていることがわかる。しかも、本番時ではトレーニングのときよりも、力を上乗せして出せることもわかってきた。我々のようなアマチュアは逆で、本番のときほど力みが上回ってしまう。こういうことがわかると、本番に強い人、弱い人というのもある程度、見えてくると思います。

適切なトレーニングに生かし、アスリートの故障を防ぎたい

—ウェアの発売から2年近く経ちましたが、反響はいかがですか?

塚田 おかげさまで順調で、とくに、アマチュアのハイレベルの方にご好評をいただいているようですね。一方で、トッププロになると、心拍数に加えて、筋電や加速度など、心身の状態を捉える多面的なアプローチが必要になりますので、現状はプロトタイプをお試しいただいている状況です。

そうした中で、プロのアスリートの方たちから、リアルタイムの筋活動や加速度のデータは、従来になかった貴重なデータで、トレーニングに活用したいという嬉しい声をいただいています。プロであっても好不調がありますし、そういう波を本人も自覚できないことがあるので、客観的なデータとして見たいとか、一度、故障を経験した方からは、故障を繰り返さないために疲労の状態を見たり、身体の動かし方を探ったりすることで故障の原因を事前に取り除くことができるのではないかといったご意見をいただいています。将来的には、アスリートの故障を減らしたり、効率よくパフォーマンスを向上させたりすることに役立てられるといいですね。

—2020年の東京オリンピック開催に向けて、ますます需要が高まりそうですね。

塚田 そうですね。一方、グローバルの開発競争も激化していて、我々も大きなプレッシャーを感じているところです。日本のモノづくりは、機能と使い心地の両方のバランスに優れていると言われるように、hitoeもそうした日本の製品の良さを生かして、アスリートの方たちに喜んで使っていただける製品として進化させていきたいと考えています。もっとも、私たちもスポーツ好きなので、自分で納得できるようなツールをつくりたいという思いが根源にあります。

また今後は、一般の人が使いやすいアプリケーションの開発も同時に進める必要があるでしょう。適切な身体の動かし方や休息のタイミングなどをコーチングしてくれるようなアプリケーションなども、できるだけ早く実現したい。また将来的には、蓄積した生体情報の解析にAI技術を取り入れるなどして、自動で目安を表示するとかアラートを出すといったこともしていけるといいですね。

—どのようなタイムスケジュールで開発を進められる予定なのでしょうか?

塚田 どのレベルのものを実現するかによって変わってきます。持久や疲労を示し、トレーニングの支援をするというレベルであれば、比較的早く実現できるのですが、トップアスリートが必要としているような高度な要求に応えていくには、長期的に研究に取り組む必要があると思っています。

個人的には、かつて整形外科の医師としてスポーツで怪我をする人を見てきた経験から、少しでもそうした人を減らしたいという強い思いがあります。怪我の原因の多くは、トレニーンングのしすぎなんですね。とくに日本人は真面目で我慢強く、根性で乗り切ろうという風潮も手伝って、疲労を蓄積させて故障につながるケースが多いのです。そうした悪循環を断ち切るためにも、適切なトレーニングに役立つようなシステムをできるだけ早く実現したいですね。

中島 野球のトレーニングを見ていても、日米の違いは顕著ですね。大リーガーなどは効率的なトレーニングを積極的に取り入れていますが、日本の場合は、高校野球や大学野球などでも練習時間が非常に長いですよね。プロ野球でもブルペンで200〜300球投げたりする。そうやってやりすぎてしまうところにストップをかけるのがコーチの役目であって、その支援にhitoeが役立つのではないでしょうか。

一方で、100本ノックなども、最初はきついのですが、だんだんに手の抜きどころがわかってきたり、相手の打ち方でどちらに球が飛んでくるのか予測がついたりといった具合に、数をこなすことで身につけられるコツというものがあります。経験を重ねる中で技術を洗練させていくわけですね。そういった意味では、スポーツにおいて鍛錬を積むというプロセスはやはり必要です。ただ、やりすぎては意味がない。オーバーワークをいかに防ぐか、まずはそこに役立てていきたいと思います。

スポーツから裁縫まで、多彩な才能を研究に生かす

—お二人ともスポーツがお好きだということで、ご研究にも役立てていらっしゃるようですね。

中島 ええ、趣味のゴルフに加え、小学校、社会人でやっていた野球、さらには自主的にやっているランニングやウォーキングもhitoeの開発にいろいろと役立っています。将来的には、hitoeを効率的なトレーニングに活かして、フルマラソンに出てみたいと思っているところです。

そして何よりも、これまで関わってきた高分子材料の研究が、思いがけず趣味のスポーツに結びついたというのは非常に嬉しいことですね。塚田さんにお会いできたことに、とても感謝しています。やはり、自分が手がけた材料が世の中に出るというのは、化学者にとって究極の夢なのです。しかもそれが、実用化されて世の中の役に立つことほど嬉しいことはありません。

塚田 私の場合は、外科医から基礎医療の研究者へ転身し、2010年に、神経の再生の研究に必要な電極の改良のために物性研に移ったのですが、ここへ来たことで研究の幅を大きく広げることができたと感じています。中島さんをはじめ、多種多様な分野の研究者がいることがNTTの強みであり、異分野の研究者が出会うことで化学反応が起こって、hitoeのような面白い開発ができているのだと思います。

また、中島さん同様、趣味の山登りやマラソンを研究に役立てられるのも嬉しいことです。そのほかにも、外科医だったことが、この研究には大いに役立っているんですよ。というのも、手先が器用なこともあって縫い物が得意なのです。hitoeのプロトタイプをつくる際には、この特技がずいぶん役に立って、オカダヤやユザワヤなどで生地を買ってきては、ウェアに仕立てているんですよ(笑)。最初は手縫いでしたが、結局、ミシンを買ってきて使い方からマスターしました。ちなみに、報道発表のときに私がインナーとして着ていたhitoeは、私が自分で縫ったものです。

—それはすごいですね!

塚田 それから、モータースポーツのインディカー・シリーズでトニー・カナーンがhitoeを着て生体情報のモニタリングをしているのですが、こちらもすべて、私のお手製です。なぜかというと、モータースポーツの場合はレギュレーションが厳しくて、耐火性のウェアでないと許可が下りないのです。そのほかにも、トランスミッターなどにももろもろ規制があって、設計から試作まですべて自作で手がけ、手染め、手配線の特別仕様でつくりました。当日のレースに間に合わせるように届けたのですが、非常にタイトなスケジュールで、正直、地獄の日々でした(笑)。

—そこでも面白いデータが取れたのですか?

塚田 ええ、インディカーは単純な楕円コースを走るのですが、4つあるコーナーのうち、一カ所で心拍数が大きく上がることがわかったんですね。あとで聞いたところ、そのコーナーには目に見えないような起伏があって、ハンドル操作が難しい場所なのだという。そのため、大ベテランのトニーでも、そのコーナーに差し掛かると心拍数が上がっていたというわけです。筋電の計測では、コーナーで大きな重力加速度がかかるので、それに抗うように身体を使っていることがわかるデータも得ることができました。

中島 こうしたことがわかってくると、今後は、モータースポーツに限らず、さまざまな乗り物のドライバーや機械のオペレーターの体調管理などにも使えるようになるのでしょうね。今後の展開を、ぜひ楽しみにしていてください。

(取材・文=田井中麻都佳)


塚田 信吾 / つかだ しんご
NTT物性科学基礎研究所 機能物質科学研究部
主幹研究員・上席特別研究員
2010年より日本電信電話株式会社リサーチスペシャリスト、2013年同社に入社。医学博士。整形外科医から研究者に転じ、「hitoe」の開発に携わる。脳神経細胞の情報伝達に関する解明・制御の研究を専門とする。最近では、導電性高分子・繊維複合素材を核にしたウェアラブル型・埋め込み型生体電極「hitoe」の研究開発も担当。生体信号を長期計測し、疾病の予防や早期発見へ活用することをめざしている。

中島 寛 / なかしま ひろし [ Website ]
NTT物性科学基礎研究所 機能物質科学研究部
主幹研究員・グループリーダ
1997年 日本電信電話株式会社 NTT物性科学基礎研究所に入社。博士(工学)。入社以来、高分子材料やナノバイオ複合材料の設計・合成と、その物性評価の基礎研究に取り組んできた。「hitoe」の発明当初からプロジェクトに携わり、現在もhitoeウェアラブル型デバイスを用いた深層生体情報の研究開発に従事している。導電性高分子をはじめとするソフトマテリアルを活用し、新奇な素材の「ものづくり」から世の中への貢献をめざしている。


柏野 牧夫 / Makio KASHINO, Ph.D. [ Website ]
1964年 岡山生まれ。1989年、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。博士(心理学)。 NTTフェロー (NTT コミュニケーション科学基礎研究所 柏野多様脳特別研究室 室長)、東京工業大学工学院情報通信系特定教授、東京大学大学院教育学研究科客員教授。 著書に『音のイリュージョン~知覚を生み出す脳の戦略~』(岩波書店、2010)、『空耳の科学―だまされる耳、聞き分ける脳』(ヤマハミュージックメディア、2012)他。

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