SPECIAL CONTENTS 「勝てる脳」のきたえ方 「心」と「技」に脳科学で迫る 連載第8回 (前編) | 2017.3.14

DIGITAL CONTENT EXPO 2016シンポジウム「オリンピック・パラリンピックにおけるコンテンツ技術の可能性」(前編)

~東京2020公認プログラム(経済・テクノロジー)/2016.10.27 日本科学未来館

テクノロジーの力で人間を強化できるか?

近年、ドローンやヘッドマウントディスプレイ(HMD)、さらにはビッグデータ解析などの先端のテクノロジーを活用し、従来になかった視点でスポーツ観戦を楽しんだり、人間の身体能力の強化に役立てたりといった、スポーツとテクノロジーの融合に注目が集まっている。とくに、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催へ向け、スポーツに資する先端テクノロジーへの期待は大きい。 2016年10月27日、日本科学未来館で開催されたデジタルコンテンツEXPO2016 シンポジウムにおいて、研究者とアスリートが一堂に会し、先端的テクノロジーの可能性と期待について語り合った。

登壇者

稲見昌彦 東京大学 先端科学研究センター 教授
柏野牧夫 日本電信電話株式会社 コミュニケーション科学基礎研究所 上席特別研究員・人間情報研究部長(当時)/NTTスポーツ脳科学プロジェクト PM(現在)
室伏広治 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 スポーツ局長(兼務 スポーツディレクター)
大日方邦子 日本パラリンピアンズ協会 副会長/日本パラリンピック委員会 運営委員/産業構造審議会 2020未来開拓部会 委員/1998年長野冬季パラリンピック、2006年トリノ冬季パラリンピック金メダリスト/株式会社 電通パブリクリレーションズ 運営推進部/オリンピック・パラリンピック部シニア・コンサルタント


人間の能力を拡張し、新たなスポーツの開拓を目指す

司会 ただいまより、デジタルコンテンツEXPO2016 シンポジウム「オリンピック・パラリンピックにおけるコンテンツ技術可能性〜東京2020公認プログラム(経済・テクノロジー)〜」を開催します。まず、東京大学先端科学研究センター教授の稲見昌彦様より、プレゼンテーションをお願いします。

稲見 私からは、体験型スポーツ観戦に関する、コンテンツ技術の可能性についてご紹介します。その前に、簡単に自己紹介をさせていただきます。私は現在、東京大学の先端科学研究センターで教授をしています。研究のテーマは、人間が自由自在に表現、行動することを支援するシステムの構築です。人間のシステム的理解や人間拡張工学などをテーマとしています。

もう一つ、「超人スポーツ協会」という団体の共同代表も務めています。この協会のテーマは、現代のテクノロジーでスポーツを再発明すること。つまり、先端技術で人間の能力を拡張し、人の身体能力を超える力を手に入れることにより、新たなスポーツを創造することを目的としています。さらには、すべての人が競技者として、あるいは観戦者としてスポーツをさまざまに楽しめるような手法の研究開発を進めています。共同代表の東京大学・暦本純一教授や、慶應義塾大学・中村伊知哉教授など、50名以上の研究者や文化人が参画している団体です。

ではなぜ、「超人」なのか —実は私は小さい頃に空を飛びたいと思っていたんですね。そこで、身体を鍛え、高い所から飛び降りるなどいろいろと試していたのですが、あるとき木から落ちて怪我をしてしまい、自分の運動神経のなさに失望してアスリートになることを諦めました。その代わりに、技術を使って人間の身体能力や感覚を高めようと考え、現在は、「身体情報学」という分野を開拓し、人間の能力を拡張する技術について研究しているというわけです。

その中でとくに注力しているのが、高齢者や障がい者の社会活動やスポーツ参加の支援技術の研究です。また、私が所属している東京大学では、2016年に全学横断で「東京大学スポーツ先端科学研究拠点」を開設し、私も運営委員の一人として加わっています。ここ日本科学未来館でも、先端技術を実際に体感できる「リビングラボ東京プロジェクト」や「超人スポーツプロジェクト」を立ち上げるなど、身体とスポーツに関するさまざまな活動をしています。

こうした研究の一つに、メガネメーカーのJINSさんと一緒に開発した、眼球の動きを計測できるメガネ型のデバイス「JINS MEME」があります。見た目は普通のメガネと変わりませんが、実は鼻のツルの部分に電極が付いていて、眼電位を計測することで、瞬きや眼球の動きを検出することができます。たとえば、このメガネ型のデバイスをかけてスポーツをすれば、眼や頭の動き、視野などを捉えることができ、眼の動きとパフォーマンスの相関などを明らかにすることができるのではないかと考えています。

それから、人間の能力を拡張するような先端技術については、2016年に上梓した『スーパーヒューマン誕生−人間はSFを超える』(NHK出版新書)の中でいろいろ紹介させていただきました。最近の面白い技術としては、米・アリゾナ州立大学の研究者が発表したジェットエンジンを背負うことで速く走れる技術があります。もっとも、これはまだ安全に止まることが難しいようです。もう一つ、ジェットパックと呼ばれる装置を背負って、水面の上を飛ぶというユニークなシステムも開発されています。私も実際に試してみましたが、子どもの頃に抱いた空を飛ぶ夢がようやく叶いました。

私たちのチャレンジは、こうした先端技術をオリンピック・パラリンピックに役立てることにあります。東京大学スポーツ先端科学拠点を活用するとともに、超人スポーツ協会のメンバーとも協力しながら、テクノロジーと技術、そして文化を融合させたイベントを計画するなど、さまざまな活動を始めているところです。学際的な取り組みも加速させていて、昨年は筑波大学で研究会を開催したほか、高齢者などの行動をアシストするスーツの開発を手がけました。おかげさまで、最近、我々の活動がスポーツ雑誌『Number』に取り上げられるなど、メディアからも注目を集め始めているところです。

テクノロジーが、スポーツの観戦やトレーニングを変える

稲見 さて、本日のテーマである「スポーツとコンテンツ技術」については、さまざまな可能性があると思っています。たとえば、今秋のバスケットボール日本リーグの開幕戦では、床面をLEDのディスプレイで覆うLEDコートが話題を呼びました。これは、ナイキとライゾマティクス、AKQA inc.(U.K)のコラボによる技術で、開幕セレモニーを盛り上げるだけでなく、得点など、ゲームの展開に応じた演出も可能で、スポーツ観戦をより面白くするのではないかと期待しています。

また、最近、さまざまな場面で、建物や物体などにコンピュータグラフィックスの映像を投影するプロジェクションマッピングが採用されていますが、今後は、こうした技術も、ナイター観戦をより効果的に盛り上げることに役立つと思います。

慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科の南澤孝太准教授が手がける力触覚デバイスの研究にも注目しています。たとえば、ラケットでボールを打つ際に手に伝わる衝撃を記録し、再現するという取り組みをされています。ご存知のように、テニスでもゴルフでも、ラケットやドライバーでボールを打ったとき、芯で捉えたか端に当たったかによって、手に感じる力や感覚は変わってきます。そうした力触覚の違いを再現するとともに、動きに合わせて映像を提示するのです。この技術を応用すれば、実際にスポーツをしているようなリアルな体験を、映像や音だけでなく、力触覚を通じて、家庭などで気軽に楽しむことができるようになるだろうと大いに期待しています。

また、このようなコンテンツ技術は楽しみのためだけでなく、スポーツトレーニングにもさまざまに生かすことができると考えています。東京大学の暦本純一教授は、走ったり泳いだりしているアスリートの後をドローンで追いかけて、その撮像をリアルタイムで確認することにより、フォームの改善に役立てる研究をされています。いまやドローンもさまざまなタイプのものが市販されていますし、近い将来、映像をスマートフォンで確認しながらトレーニンングするといった光景が見られるようになるかもしれません。このように先端のテクノロジーがスポーツトレーニングのあり方自体も大きく変え始めているのです。

米国を中心に、スポーツトレーニングに資するビッグデータ解析の研究も盛んに行われています。バスケットボールの分野では、最近、コートのどの位置からボールを投げたときに、シュートが決まる確率が高いかをマッピングした研究成果が発表されました。結果、ゴールに対して45°の角度からがもっともシュートが決まりやすいこと、さらには18インチあるゴールの中心位置から奥に1〜2インチのところ、すなわち11インチの場所を狙うのが最適な方法だということがデータから明らかになりました。こうした結果に基づくトレーニング装置が開発されるなど、ビッグデータ解析が新しいトレーニング方法をも見出しつつあります

さらに注目されているのが人工知能(AI)です。今年はGoogleのアルファ碁が囲碁のチャンピオンを破ったとして大きな話題になりましたが、若い棋士たちがAIの打った手を新しい定石として学び、これまでになかったスキルを磨き始めています。これはスポーツの世界でも起こり得ることでしょう。たとえば、日立で開発している「Hitachi AI Technology/H」は、売り上げや作業効率など、与えた目標を最大化するために開発されたAIですが、このAIをブランコを漕ぐロボットにつなぎ、自律的に動きを強化学習させたところ、面白い結果が得られました。ロボットは、最初はランダムで下手くそな動きしかできないのですが、徐々にコツをつかみ、最終的にブランコの揺れ幅を最大化するための漕ぎ方を身につけたのです。しかも、前と後ろの両方で膝を曲げ伸ばしするという、人間よりも効率のいい膝の動かし方を発見しました。このように、AIを活用することで、効率的なボールの投げ方や球の打ち方などを発見できるかもしれません。

バーチャルリアリティへの期待も高まっています。2014年に日本VR学会が主催した「国際学生対校バーチャルリアリティコンテスト」で総合優勝を果たした筑波大学のチーム シャンピニオンの「CHILDHOOD(チャイルドフード)」は、腰に装着したカメラの映像を頭につけたゴーグルで見るという作品です。これにより、自分の目線があたかも腰の位置に下がったような不思議な体験が得られます。学生と話しをするときも、思わず見上げてしまう。つまり、自分が子どもだった頃の身体感覚を思い出すことができるのです。こうした技術を応用して、逆に自分よりも身長の高い選手がどういう景色を眺めているのかを見ることができれば、攻略法を編み出させるかもしれません。また、先に紹介した視線をトラッキングできるデバイスなどと組み合わせることで、相手がどこを見ているのかを明らかにできれば、それに応じた戦略を立てることにも役立つでしょう。

今後は、先端技術がスポーツ観戦のあり方も大きく変えていくと思います。暦本先生は、頭に鉢巻状の小型カメラを装着して、その人から見た360°全方向の映像をリアルタイムで取得し、合成する技術を開発されています。この技術を使えば、スキーで大回転をしている選手やフィギアスケートでスピンをしている選手の視点からの映像を見ることができます。オリンピックのときに実際に選手の頭につけるのは難しいかもしれませんが、審判やフィールドの近くにいる人に装着し、4Kや8Kテレビなどでその映像を流せば、お茶の間に居ながらにして、あたかも会場にいるかのような臨場感あふれる観戦体験が可能になるのではないでしょうか。

スポーツとテクノロジーの融合による新たなスポーツの可能性

今年、スイスでは「Cybathlon (サイバスロン)」という最先端のロボット工学やバイオメカニクス技術を使って能力を拡張した障がい者アスリートのための国際大会が開催されました。これはチューリッヒ工科大学のロバート・ライナー教授が中心になって始めた国際大会で、我々が目指す超人スポーツの方向性とも合致しています。もちろん、現在、テクノロジードーピングが深刻な問題として議論されていることは承知していますが、一方で、先端技術を積極的に活用し、新しいスポーツのあり方を探るというのは非常に面白い試みだと思います。

Cybathlonの中には、ロボット義手を使って細かなモノをつかんだり、運んだりする競技のほか、脳波でコンピュータ上のアバターを操作して速さを競う競技、電動車椅子による障害レースなど、多様なものがあります。私も観戦してきましたが、盛り上がりに欠けるのではないかというのは杞憂で、応援する側も、選手も大変熱が入り、大いに盛り上がりました。テクノロジーとスポーツの融合の一つのあり方を示唆する大変興味深いイベントでした。

司会 稲見様、ありがとうございました。続きまして、NTTコミュニケーション科学基礎研究所 上席特別研究員 人間情報研究部部長、柏野牧夫様にお話しいただきます。「アスリートの脳:メカニズムの解明とトレニーニングへの応用可能性」と題しまして、プレゼンテーションをしていただきます。

スポーツと脳の密接な関係

柏野 本日はアスリートの脳をテーマに話しをさせていただきます。私はもともと人間の感覚系、主に聴覚の研究を手がけてきました。たとえば、やかましい環境の中で聴きたい音を聴き取るための脳の働きであるとか、聴いている音から感じる感情を眼の動きから読み取る研究であるとか、さらには、人とのコミュニケーションが難しいとされる自閉スペクトラム症の方の感覚系の特性を探るといった取り組みをしています。そうした中、最近、スポーツが我々の研究を進める上で、大変興味深い対象であることに気づき、昨年、「スポーツ脳科学」という研究分野を立ち上げたところです。

スポーツと脳というと、一見、非常に遠いものに感じる方もいるかもしれません。しかし実のところ、スポーツにおいて脳は非常に重要な働きをしています。先日、雑誌『Number』の取材を受け、その際にボクシンングの井上尚弥選手とお話しをさせていただく機会を得ました。彼は小柄ながら強烈なパンチの持ち主で、反応が非常に速いことで知られています。ゆえに、これまでのキャリアの中で、一度も血を流すようなパンチを受けたことがないのだという。たとえば、相手の反応に応じて即座に手を変え、パンチを浴びせるといったことができる稀有な選手なのです。

ではいったい、彼の何が優れているのでしょうか。通常は、優れたスポーツ選手には、人並み外れた筋力があるのだろうとか、動体視力が優れているんじゃないかとか、反射神経がいいのではないかと思われるかもしれません。ところが、あるテレビ番組で井上選手の身体能力を調べたところ、アスリートとしては人並みだったそうです。そこでご本人に、「あなた自身は、何が一番優れていると思いますか?」と聞いてみたところ、「空間認識能力です」という答えが返ってきました。井上選手の言う空間認識能力とは、道に迷わないということではなく、1ラウンドが始まって早々に、相手に対してどこまで踏み込んでも大丈夫か、相手との間合いを把握できることだと言います。また、井上選手は素早いカウンターを得意としていますが、それは反応が速いからではなく、手前の動きから仕掛けることで、予想通りに相手が動いた結果なのだと言っていて驚きました。

さらに、「試合中、どこを見ているのですか?」と問うと、「相手の目の当たりをぼうっと見ているけれど、目を見ているわけではない。足は見えないけれど、身体全体の動きを視野全体で感じている」と。これは、まさに宮本武蔵の言うところの「観の目」です。宮本武蔵の『五輪書』の中に、兵法の眼付けとして、「観の目強く、見の目弱く」という有名な言葉があります。観の目とは、視覚的な情報からかたちを見るのではなく、その背後にある相手の意図や、次に何が起こるかを予測しながら観る態度のこと。脳科学流に言い換えるなら、相手の動きに関するモデルを脳内に持っていて、それに基づいて視覚情報を解釈すること、と言ってもいいでしょう。見たものに意味を与え、解釈をすることで、初めて状況に応じた適切な対応が可能になるのです。

つまり、いちいち頭で考えながら動いているわけではないけれど、何も考えないで反射で動いているように見えて、実は脳がフル稼働しているということだと思います。こうした反射的な脳活動のことを、我々は「潜在脳機能」と呼んでいます。潜在脳機能とは、無自覚的で、意識してコントロールはできないけれど、スポーツに欠かせない瞬時の判断において重要な役割を果たす脳の働きのことです。もっとも、スポーツに限った話ではなく、日常生活の動作や意思決定など、我々の何気ない行動においても、この潜在脳機能は極めて重要な役割を担っています。

素早い反応を司る「潜在脳機能」

柏野 先日、研究の一環として、女子ソフトボールの日本トップレベルの中学生選手の方々を計測させていただきました。ソフトボール女子では、ピッチャーからホームベースまでの距離は約13mです。その距離を90km/h台のスピードで球を投げます。これを野球の距離に換算すると125〜135km/hくらい。日本代表の上野由岐子選手は120km/h台で投げますから、野球に換算すると150〜160km/hにもなり、大谷翔平並みということになります。ピッチャーの手からボールが離れてホームベースに到達するまでの時間はわずか0.4〜0.5秒くらいです。そのわずかな時間に意識をして何かをすることはほぼ不可能です。そもそも、目から情報を得て、脳内で処理するだけで 0.2〜0.3秒ほどかかりますし、そこからさらに何かしようと動くのにも同じくらいの時間がかかる。つまり、情報を捉えてから動いたのでは、絶対に間に合わないのです。ところが実際には球を打つことができるように、無自覚のうちに身体は反応しています。その動きを担うのが、まさに潜在脳機能なのです。

さて、こうした反応について、脳の観点から見ると、その謎に近づくことができます。脳の視覚野は頭の後ろの部分の後頭葉にありますが、実は処理には複数の経路があって、大きくわけると、後頭葉から頭の上側、頭頂葉を通る経路と、頭の下側を通る経路の二つがあるのです。頭頂葉を通る経路は動きを捉え、身体を動かすための経路です。一方、下側の経路は、色やかたちを認識する経路。つまり、文字を見るとか、人の顔を認識するのは下の経路で、飛んできたボールへの反応は上の経路を使っています。

そして、色やかたちを見るためための経路は、細かい認識ができるけれど処理が遅く、動きを見る経路は粗い情報しか得られないけれど、処理が非常に速いという特徴があります。つまり、頭頂葉を通る情報は意識には上りませんが、素早い反応を司っているのです。ですから、ボールに素早く反応するために鍛えるとしたら、上側の経路を鍛えるのが得策だということです。

それでもまだ、不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。なぜなら、自分では球を引きつけて打ったという自覚があるからです。自分では意識して打ったつもりでいるかもしれませんが、実は意識というのは後付け的に辻褄を合わせて、0.5秒ほど後に意識に上ったにすぎません。このように、意識していることと実際に起きている出来事では、かなりズレがある。そう考えると、動体視力を鍛えようと、瞬間呈示された文字を読むなどというトレーニングは、あまり役に立たないことがわかるでしょう。スポーツ技術の向上には、素早い反応を司る脳の機能を効率的に鍛える必要があるということです。

脳や身体で起きている状態を探り、パフォーマンス向上に役立てる

柏野 さて、そうしたことから我々が手がけるスポーツ脳科学のキーワードは、この意識しないで勝手に動いてしまう潜在脳機能です。最初のステップとしては、身体や脳で起きていることを捉えようとしています。そのために、アスリートのパフォーマンスの邪魔にならないように、主にウェアラブルのセンサを活用して計測を始めているところです。たとえば、NTTは東レと共同で導電性の機能素材hitoe®を開発していますが、このhitoe®を組み込んだウェアを心拍データの取得に役立てています。さらには、研究段階ではありますが、hitoe® による筋電、すなわち筋肉の動きの計測も始めています。また、目がどこを見ているのか、またその際の瞳孔の状態を調べたり、身体の動きをリアルタイムで調べたりするなど、さまざまな生体情報の取得に取り組んでいます。

次に、こうして得られた生体情報を機械学習や信号処理の手法で解析して、その中で何が本質なのかを探ろうとしています。さらには、その研究成果をアスリートにフィードバックしよう、というのがこの研究の最終的な目標です。ではどうやってアスリートにフィードバックするのか。たとえば、直感的にそう身体が動いてしまうように仕向けたり、脳が勝手に働くように仕向けたりできないかと考えています。その一つが、筋肉の活動を音に変換して伝える「可聴化」という手法です。たとえば、プロ投手とアマチュアの動きの違いを音に変えて表現することで、投げる際のリズムの違い、力の入れ具合の違いなどを明らかにして、トレーニングに役立てられないか探っています。

もう一つ、我々が活用しているのがバーチャルリアリティ(VR)です。ヘッドマウントディスプレイ(HMD)を使って、ピッチャーの投げた球を再現し、あたかも打席に立っているような感覚を味わうことが可能です。たとえば大谷翔平選手が165km/hのストレートを投げた後に、150km/hのフォークを投げてきたら、どのように感じるのか、といったことも原理的には再現可能です。あるいは、顔めがけてデッドボールが飛んできて、その後にカーブが来たときのバッターの身体の反応といったものも、VRだからこそリアルタイムで計測することが可能になります。

さらには、実世界でも計測していて、試合中の生体情報の変化をhitoe®などのセンサを使って計測をしています。実は私は下手の横好きで野球をやっていて、桑田真澄さんのいる草野球チームで投手を務めているのです。まわりの選手は元プロ野球選手だったり、元高校野球児だったりで、試合では相当プレッシャーがかかるのですが、その試合で自分自身を計測してみた結果、緊張により心拍数が思いのほか上がっていることがわかりました(詳細は第三回参照)。日頃の練習と同じくらいの運動強度にもかかわらず、試合を壊してはいけない大事な場面では、プラス60くらい心拍数が上がってしまっていました。さらに、すでに登板を終えたにもかかわらず、味方が打てば逆転して勝つという場面では40〜50くらい心拍が上がっていたのです。ウェアラブルセンサの開発により、こうした実世界で起こっている心身の変化も、詳細に記録できるようになってきました。

ここまでお話ししてきてお気づきのように、スポーツで勝つためには、単に筋力や心肺機能、スタミナを高めるだけでは不十分で、本番での心身の状態をうまくコントロールすることが欠かせません。そのカギを握るのはまさに脳にあります。しかし難しいのは潜在脳機能というのは意識できませんし、コントロールも難しい。そこで、おそらく潜在脳機能が並外れて優れているであろうトップアスリートの方たちにご協力いただき、その働きを解明しようとしています。本日、この後、ご登壇される室伏広治さんとも、ご一緒に研究をさせていただいているところです。

今後はさらに、パフォーマンスの邪魔にならないかたちでさまざまな生体情報を取得して、ディープラーニングに代表される人工知能などの先端技術を活用することで、脳の解明を加速させ、画期的な新しいトレーニング方を開発したいと考えています。

もっとも、実環境というのは、あらゆる要因が複雑に絡んでいるため、そこから原因と結果を詳らかにすることは簡単ではありません。ただ、実環境でのデータ取得を積み重ね、解析をし続けていくことで、科学的な証拠に基づく新たな方法論を生み出すことが可能になっていくと思います。さらには、人それぞれ、身体も脳も違いますから、その人に特化したトレーニング法を編み出したい。それができれば、無理なトレーニングで身体を壊したり、相性の悪いコーチの下で能力を発揮できなかったりといった悲劇を減らすことにも貢献できるのではないかと思います。

司会 柏野様、ありがとうございました。


(構成・文=田井中麻都佳)


柏野 牧夫 / Makio KASHINO, Ph.D. [ Website ]
1964年岡山生まれ。1989年、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。博士(心理学)。 現在、日本電信電話株式会社コミュニケーション科学基礎研究所上席特別研究員・スポーツ脳科学プロジェクト プロジェクトマネージャー、東京工業大学工学院情報通信系特任教授。 専門は心理物理学・認知神経科学。著書に『音のイリュージョン』(岩波書店、2010)、『空耳の科学』(ヤマハミュージックメディア、2012)他。

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