脳・からだ・こころ -SBS Archive- No.4

「聞くこと」について自由に語れるような、ひらかれた場をつくりたい

Makio KASHINO

2018.4.23

幼少期からの電気工作と歌謡曲好きが昂じて聴覚研究者になったと公言する柏野牧夫氏。2017年からプロジェクトマネージャーを務める「Sports Brain Science Project(スポーツ脳科学プロジェクト)」も、もとはといえば趣味の投球が原点となっている。しかし通常、研究者が扱うテーマは、日常生活と何らかの意味で関連はしているけれど、その関係が直ちには理解できないものが多い。また、学術的な話は難しく、専門知識がなければなかなか理解できない。分野がちがえば、専門家どうしであっても互いに話が通じない。柏野氏は、そんな状況をなんとか変えていきたいという思いから「Hearing×」を立ち上げたと語る。
(*こちらの記事は過去に「Hearing X -『聞こえ』の森羅万象へ -」に掲載されたものをアーカイブとして公開しています。)

きっかけは、研究者の世界が日常とはかけ離れていることへの疑問

—Q:なぜ、このサイトを立ち上げようと思ったのですか?

柏野: 私は長年、聴覚研究者として仕事をしてきましたが、研究者の営みの多くが、日常生活からまったく切り離されていることにずっと疑問を抱いてきたことが、きっかけになっています。

本来、聴覚に限らず、知覚というのは、人間の営み、つまり生活や文化、思想と密接に関わっているものですよね。ところが、我々のようなサイエンティストが専門誌に論文を発表する際には、日常とは遠くかけ離れたテーマについて論じることがほとんどです。当然、聴覚の研究の中で、音楽や文化について語ることなどありません。

私は演歌や歌謡曲が好きでよく聴きますし、そもそも研究のモチベーションももとはと言えば自分の好みや疑問から生じているはずなのに、論文でそのことに触れたことなど、もちろんありません。我々、科学の世界に身を置く人間の多くは、音楽や文化、思想の世界とはかかわりのないところにいて、業界の中だけで議論しているのが実情なのです。

たとえば、聴覚研究に関して教科書に載っていることと言えば、音の大きさや高さ、音源定位、マスキングなどと、だいたい決まっています。もちろんそれらは聴覚を語るうえで欠かせない基本的な内容ですが、一方で、聞くこと全体から見ればほんの一部の要素でしかありません。

なぜ、長調は明るく、短調は物悲しく聞こえるのか、なぜ、人間は人工知能のように何万曲も学習しなくても、ちょっとクラシック音楽の心得があれば、「これはモーツアルトっぽい曲だな」などと思えるのか、そういった音や音楽にまつわる素朴な疑問に答えるような研究は、残念ながらあまりありません。

じつのところ、研究で扱うのは聴覚の一面でしかなく、教科書に書いてあること以外のことは暗黒大陸のごとく、ほとんど何もわかっていないのです。我々専門家も、皆さんが日常で感じているような素朴な疑問にスラスラと答えることもできない。こうした聴覚研究をとりまく状況にずっと閉塞感を感じてきました。

聴覚の先端研究と日常をつなぐ場にしたい

柏野: そんな中、2017年に私が中心となって「Sports Brain Science Project(スポーツ脳科学プロジェクト)」を立ち上げたことが、大きな転機になりました。このプロジェクトは、簡単に言えば、アスリートがからだを最適に操り、パフォーマンスを高めるための方法論を、認知とそのはたらきを司る脳から探るというものです。

このプロジェクトの中で、実際に多くのトップアスリートの方々にご協力いただき、計測をさせていただいたり、お話をしたりする機会を得ました。その際に、我々が知っている学術的な知見をアスリートの方たちにわかりやすくお伝えすると、ものすごく感謝されることがあるんですね。

たとえば、一言で見ると言っても、脳における視覚の情報処理には複数のルートがあって、空間的な位置や動きの情報を処理する経路と、色や形の情報を処理する経路はちがうんですね。スポーツにおいては、動きを処理する経路が重要になります。こういったことは、視覚の研究ではあたり前のことですが、意外に知られていません。また、少年野球などの指導で、「ボールをよく見て!」などと言ったりしているのを聞いたことがあるかもしれませんが、じつは素早いからだの反応のためには、どこを見るということもなく、ぼんやり景色全体を見ていたほうがいい、という話もある。そんな話をすると、ひどく驚かれることがあるのです。

このように、研究者からしてみればあたり前ことであっても、一般の人にはまだまだ知られてないことがたくさんあるし、ただ論文を発表するだけでなく、たとえ論文にならないようなことでも、知っている知見を広く一般に伝えることで世の中に貢献できることもあるんだなと、スポーツ脳科学プロジェクトを通じて実感したのです。

逆に、スポーツ選手の方たちとお話をする中で、これまで我々が気づかなかったようなあらたな課題を教えられることも多々あります。もちろん、さまざまな疑問を投げかけられることもあります。

そこで、聴覚研究の知見をわかりやすく伝えるとともに、さまざまな分野の方たちと双方向に交流できる場をつくり、議論を深めたいと考えて、このサイトを立ち上げたというわけです。

平易なことばで、できるだけ正確に伝えたい

—Q:既存のメディアではなく、自らが運営するメディアで情報を発信するのはなぜですか?

柏野: まず、専門誌では、一般の人の目には触れませんよね。では、マスメディアはどうか。もちろんより多くの人に広く知っていただくという点ではマスメディアはとてもすぐれています。しかし実際、私もこれまでテレビや新聞、雑誌など多くのメディアから取材を受けてきましたが、お話したことのすべてが取り上げられるわけではありませんし、ときには先方がつくったシナリオにそぐわないと言って、曲解されたり、まちがった情報を伝えられてしまったりしたことがたびたびありました。

ある有名なテレビ番組で「難聴」が取り上げられることになり、取材を受けたときもそうでした。制作ディレクターの方に、「小さい音が聞こえることと、大きな音を区別して聞き分けることは、まったく別の問題ですよ」と説明したところ、なかなか理解してもらえず、一般の視聴者には難しくて伝えられないという理由で、結局、その部分はまるまるボツになってしまったのです。

どういうことかというと、難聴にもいろいろあるということなんですね。通常、健康診断や耳鼻科などで行われている聴力検査というのは、どれくらい小さい音が聞こえるかを測ります。ところが、こうした聴力検査ではまったく問題がないのに、雑踏の中で話し声が聞き取りにくくなるなど、話し声くらいの音量のものの背後に雑音があるときに、聞こえにくくなる症例の人がいるのです。これは「隠れ難聴」と呼ばれていて、内耳から脳幹へと音の情報を伝える聴神経の損傷が原因とされています。

小さい音が聞こえなくても、日常生活ではさほど困らないかもしれませんが、隠れ難聴の人は、日常的に困る場面が多々あります。だからこそ隠れ難聴について伝える意義があるわけですが、視聴者に理解されにくいという理由で取り上げてもらえないのはとても残念なことです。と同時に、「直感に反すること」というのは、一般にはなかなか伝わりにくいのだな、とも思いました。

そうであるのなら、せめて自分の専門分野に関しては、こちらが主体的に関わるメディアで、時間や文字数にとらわれることなく、わかりやすい言葉でていねいに伝えるコンテンツをつくればいい、と考えました。それが、オウンドメディアで情報を発信する理由です。

世の中には、直感に反するようなことはたくさんあります。また、少しでも科学リテラシーがあれば、これは怪しいなと思えるような情報が蔓延していることにも気づかされるでしょう。科学リテラシーというとちょっとエラそうですが、もう少し、社会全体として科学・技術に関する知識や考え方を養い、判断する力を身につけることができれば、エセ科学にだまされるようなことも少なくなると思っています。

学問分野間のミゾを埋めることに役立てたい

柏野: もう一つ、このWebを立ち上げた理由の一つに、学問分野どうしの分断をなんとかしたい、という思いもあります。

1994年に起こった、「ソーカル事件」をご存知ですか? これは、ニューヨーク大学の物理学の教授だったアラン・ソーカルという人が、フランスの現代思想の学者の文章を引用しつつ、自然科学の用語と数式をもっともらしくちりばめたデタラメな内容の哲学論文を書いて、著名な評論誌に送ったところ、編集者のチェックを経てそのまま掲載されてしまったという事件です。しかも、掲載されるやいなや、ソーカル教授は、それが擬似論文であったことを公表して、大きな騒ぎとなりました。

ソーカル教授の意図は、当時のポストモダン派の学者たちがこの論文をデタラメであると見破ることができるかどうかを試すことにありました。だからあえて、自然科学の一般教養があれば簡単に見破れるような、インチキな数式や記号、用語を用いて論文を書いたのです。にもかかわらず、すんなり論文が掲載されてしまったことで、ソーカル教授は、ポストモダンの研究者をはじめ、浅い知識と理解のもとで専門用語をふりかざして権威づけをしてきた学問のあり方自体を大いに批判しました。

ソーカル教授のやり方はとても意地悪ではありますが、学問間の分断に一石を投じたという意味では意義深いものだと思います。その状況はいまもほとんど変わっていませんし、いまだに、専門用語を盾にして、もっともらしいふりをしながら、じつのところ科学的根拠のないような話をしている専門家もいます。

こういう状況を変えていくためには、わかりやすい共通言語で専門家どうしが対話し、理解を深める場が必要だと感じています。そうすることで、それぞれの学問によい影響をもたらし合い、学問全体の活性化につながるのではないかと思っています。

役に立つ科学・技術でないとダメという風潮をなんとかしたい

柏野: さらに言えば、最近の国家プロジェクトにしろ、科学研究費助成事業にしろ、なんでもかんでも「社会に役立つ科学・技術」を求める風潮をなんとかしたいという気持ちもあります。もちろん、社会に役立つ科学・技術は重要です。ただ、そういう場で役に立つと言われていることの多くは、表層的な経済性や利便性に重きを置いていて、重要な社会課題の解決や、助けを必要としている人に本当に役立つのかどうか疑問に思うことがあります。また、真理を追究するとか、世の中のあり方を問うような研究には予算がつきにくいのが実情です。

もちろん経済性や利便性は大切ですが、実際に世の中を突き動かしているのは、人間の本質、つまり本能や欲望に関わる部分に根ざしたものがほとんどだと思います。そうした観点から、社会をデザインし直していくアプローチが必要ではないでしょうか。

たとえばいま、セキュリティは重要な社会課題です。人間はミスも犯すし、悪意のある人もいるし、その観点からだけでセキュリティ対策をしようとすると、せっかく開発された便利な機能も危ないからと使えなかったり、やたらセキュリティチェックが面倒になったりと、それこそ非効率ですよね。効率を損なうことなく、安全性を保つためには、たとえば、悪意のある人の気持ちを萎えさせるとか、なにかもっと人間の本質に働きかけることで解決していく方法があるのかもしれません。それを、セキュリティの専門家だけで語っていても、なかなか解決できないように思います。

聴覚についても同様で、聞こえや音に関わって仕事をしている人というのは、世の中にはそれこそたくさんいます。音楽家や音響デザイナー、耳鼻科の医師、言語学者などはもちろんのこと、音は日常生活と切り離すことができないものなので、さまざまな人に我々の知見を伝えることで、役立ててもらえる場面があるはずです。

たとえば、現在、深刻な問題として、保育園や幼稚園の先生の多くが難聴になるリスクに晒されています。長時間、一緒にいる子どもたちの叫び声に曝露されると、聴覚系に負担がかかり、難聴や先ほどの隠れ難聴になる可能性があるのです。この問題を解決するためには、保育園や幼稚園の建物の構造をちょっと工夫して音の反響を抑えたり、子どもの行動そのものを変えたりすることで、ずいぶん緩和できるでしょう。

さまざまな課題を解決するにあたり、単純な性善説に立脚した社会像からだけ答えを導き出そうとするのは無理があると思います。むしろ、人間の本質、欲望、本能に向き合いながら、よりよい社会をデザインできるよう示唆していくことが、我々のように人間を対象に研究している者の役目なのではないかと思っています。

聴覚研究とスポーツ脳科学の共通点とは

—Q:いまや柏野さんは、聴覚研究者というよりも、スポーツ脳科学の研究者としてメディアで取り上げられる機会が増えています。あえて原点である聴覚に立ち返るのはなぜですか?

柏野: いや、私の中では、聴覚とスポーツ脳科学というのは、ある意味、同じ話であって、まったく別の研究というわけではないのです。そう言うと驚かれることも多いのですが、よく考えてみれば、じつは歌をうたうことも、言葉をしゃべることも、楽器を演奏することも、すべて運動そのものですよね。運動した結果として音が発せられ、その音を聞いて、運動を調整する、その繰り返しが行為を成り立たせているわけですから。

スポーツも同様で、自分が動いた結果、ある感覚が生じ、その感覚を頼りに動きを調整するという意味で、似たことをやっています。ちょっと難しい言い方をすると、「感覚系と運動系のループにより成立する行為」という点で、音声言語や音楽とスポーツは本質的には共通なものなのです。

皆さん、母語をしゃべることにかけてはプロフェッショナルなので、あまり意識したことはないと思いますが、本当は言葉をうまくしゃべるためには、同時にたくさんの筋肉を操りながら、タイミングをうまく合わせたり、力加減を調整したりしなければなりません。少しでもタイミングがずれたり、口の形がちがったりすれば、ほかの発音になってしまうこともあります。それほど、しゃべるときに我々は精巧な運動を操っているのです。

それと同じようなことを、プロのスポーツ選手や音楽家などは全身を使ってやっています。彼らは身体をどういう感覚をもって動かせばよいのか、ちゃんとわかっているからこそすぐれたパフォーマンスが発揮できるのです。

もしそのとき、ふりかざした腕の感覚がなかったり、鳴らした楽器の音が聞こえなければ、うまく投げたり、演奏することは難しいでしょう。つまり、動くためには感覚のフィードバックが不可欠で、フィードバックがあるからこそ、動きをコントロールできる。感覚というのは、独立して存在しているわけではないんですね。

そのように、私はこれまでずっと感覚と運動の相互作用に興味をもってきたので、スポーツ脳科学をやることにはなんの違和感もありませんでした。しかも、聴覚研究からスポーツ科学の分野を眺めてみると、まだまだ研究されていないあらたな領域が広がっていて、それこそ研究者としてワクワクしているところです。

未来の世の中がどうなっていくのか、一緒に考えたい

—Q:このWebサイトでは、研究の最先端だけでなく、日常生活にかかわるようなことも取り上げていくということですが、具体的にはどのようなことでしょう?

柏野: たとえば、音楽の聴き方一つとっても、一昔前といまではずいぶん変わりつつありますよね。私の幼い頃には、テレビやラジオから流れる流行歌を聴きながら育ち、いやおうなくそのときどきの流行歌を聞かされていました。ところが、いまは多くの人が、自分が好きな楽曲を選んで、しかもヘッドフォンで、他人に聞かれることなく自分だけで聴くようになっています。昭和とは、ずいぶん環境が変わってきているんですね。このことは、流行りの音楽自体を変えてきているにちがいありません。さらには、文化全体のあり方にも影響しているかもしれない。

あるいは、多くの人が都会に暮らすようになり、虫や鳥の鳴き声も知らない一方で、ボーカロイドの声には慣れ親しんでいる子どもが増えている。そのことが、人間の情動やコミュニケーションといった側面にどのような影響をもたらしているのかといったことも、興味深いことです。

答えが簡単に見つかるような話ばかりではありませんが、さまざまな分野の方との対話を通じて、学術論文には取り上げられないけれど、人々の興味を引くような話など、聞くことの森羅万象を浮き彫りにできたら楽しいですね。双方向メディアとして少しずつコンテンツを増やしていきたいと思っていますので、読者の方からは、ぜひ、ご質問やご意見などもいただけたらと思っています。

(取材・文=田井中麻都佳)

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柏野 牧夫 / Makio KASHINO [ Website ]
田井中 麻都佳 / Madoka TAINAKA (取材・執筆)
編集・ライター/インタープリター。中央大学法学部法律学科卒。科学技術情報誌『ネイチャーインタフェイス』編集長、文科省科学技術・学術審議会情報科学技術委員会専門委員などを歴任。現在は、大学や研究機関、企業のPR誌、書籍を中心に活動中。分野は、科学・技術、音楽など。専門家の言葉をわかりやすく伝える翻訳者(インタープリター)としての役割を追求している。趣味は歌を歌うことと、四十の手習いで始めたヴァイオリン。大人になってから始めたヴァイオリンの上達を目指して奮闘中。