Hearing X Auditory Illusion in Music

[2] カクテルパーティとモテトゥス、そして「音楽的な耳」

Risa MORIYA

2018.8.16

シリーズAuditory Illusion in Music(音楽におけるイリュージョン)では、音楽におけるさまざまな錯聴をご紹介します。聴こえ方のトリックをうまく取り入れた音楽(作品)の分析や、効果のしくみの解説とともに、テーマごとにその効果を応用した新作を発表していきます。
(*こちらの記事は過去に「Hearing X -『聞こえ』の森羅万象へ -」に掲載されたものをアーカイブとして公開しています。)

「音楽的な耳」を持つ、ということはどのようなことでしょうか。音楽家にとって必要不可欠な聴取の能力について、脳科学で言われるところの「カクテルパーティ効果」という切り口から考察してみます。

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もしも、カクテルパーティに聖徳太子が出席したら一体何人分の会話を聞き取ることができたでしょうか。 聖徳太子が一度に10人の話を聞き分けられた、という伝説は有名です。同時ではなく、順番に10人だったという説もありますが、ある種特殊能力のように語られています。また、一度聴いた曲をすぐさまピアノで弾けてしまったり、一度見た風景を写真のように記憶して絵に描き起こせる、あるいは映画「レインマン」のように、散らばった何百本もの爪楊枝の数を瞬時に言えるようなサヴァン症候群の人もいます。その一方で、ASD(自閉スペクトラム症)の人のうち、周りに音がたくさんある環境では、音の聴き取りに困難を伴う人がいるように、人の聴取の様相も様々だと言えます。

では、音楽家の場合はどうでしょうか?今回は「聞く」「聴く」、あるいは「聞こえる」ということに焦点を当てながら、音楽家の耳、そして「音楽的な耳」を持つということはどのようなことか、について一考してみます。

音楽における「カクテルパーティ」効果:モテトゥス

聴覚や神経科学の分野で有名な「カクテルパーティ効果」は、多くの人が同時に話をして音のカオスになっている場でも、話し相手の声だけに集中して聞き分けることができるという人間の耳の素晴らしい特性を示すものですが、それが人の話し声ではなく音楽(あるいは旋律)だとしたらどんなことがいえるでしょうか。

人の声が同時に重なる状態を、(楽)音が重なる状態に置き換えるならば、「カクテルパーティ」に准ずる音楽は非常に古い時代から存在していました。ポリフォニー(多声音楽)をイメージすることにしましょう。同時に複数の声部の音が独立して進行しています。ポリフォニー自体は、世界の様々な地域の様々な民族の間に存在していますが、一つの面白い例として挙げられるのが、13世紀頃、Ars antiqua、そしてArs novaの時代、パリのノートルダム楽派を中心に多く作られた、モテトゥスmotetusと呼ばれる多声の声楽曲のジャンルです。

元々は、ラテン語文語のグレゴリオ聖歌の旋律を定旋律として、テノール(最下声部)に配置し、その上に創作される対位旋律(第2声部)のことを、モテトゥスと呼んでいました。それが後に曲種の名称としてモテトゥスと言われるようになり、2声だけではなく、3声、4声の曲が作られるようになります。 モテトゥスは、「言葉」を意味する中世フランス語の「モ」mot を語源に持つと言われています。それは、モテトゥスができる前の時代にあった多声音楽のオルガヌムやクラウスラでは、対位旋律が母音で歌われていたのに対して、歌詞が付与されたこと、また複数の言語からなるポリテクストであるという特徴に由来していると考えられます※1。

下の譜例は作者不明のモテトゥスの抜粋ですが、テノールがラテン語のグレゴリオ聖歌(Kyrie)、2声部目duplumはイタリア語、3声部目triplumはフランス語です。

Audio1

譜例

モテトゥスがとりわけカクテルパーティ効果の例として興味深いところは、ラテン語の聖歌にフランス語の副旋律が作られたり、譜例のように3言語が同時に歌われていたりということもしばしばあるような多言語性に加えて、その内容も、宗教的なものだけでなく、吟遊詩人のトルヴェールたちが歌ったような恋の歌や、牧歌的な歌、政治の風刺、それ以外の世俗的な内容であったりと多面的で、かつ音楽的にも各パートの旋律が独立性を持ったものである点です。つまり、カクテルパーティというひとつの空間の中で、様々な人々がそれぞれ違う会話をしているのと同じ状況と言えるでしょう。

このようなジャンルの場合は、それぞれの独立した旋律を追うだけではなく、同時に多言語の歌詞を追うのは難しく思われますが、モテトゥスに限って言えば、定旋律にグレゴリオ聖歌があることで、すでに祈りとしての信仰が表されており、聴衆が全ての音を聴き取れるかどうかは問題ではなかったようです。ただ逆に、創作として複数の旋律を一つの曲に纏め上げるには相当に卓越した技術が必要であり、モテトゥス、あるいはルネッサンス期のモテットを作れるのは一流のプロフェッショナルのみだったことを、13世紀フランスの音楽理論家、ヨハンネス・デ・グロケイオ(1255-1320)が記述しています。

なお、作品である音楽のポリフォニーとカクテルパーティ効果の間には異なる部分も存在します。それは、音楽においては、選択した聴取の対象以外は無関係な音、聞き流してよい音、ということには決してならず、音楽では独立したそれぞれのパートのお互いの音が相まって、音楽全体の構成要素となっている点です。つまり、不必要な音は存在せず、全ての音が相乗効果を生んでいるのです。


※1 グレゴリオ聖歌の旋律を4度や5度の平行で歌うオルガヌムや、ルネッサンス以降に最もよく多く作られた曲のジャンルの一つであるモテットとの大きな違いは、その世俗的要素にあります。

音楽家の耳

さて、さらに西洋クラッシック音楽の歴史を追って行くと、多くの偉大な芸術家が生まれ、その度に芸術としての音楽が緻密かつ複雑に発展していきます。その中で、作曲家のみならず、演奏家、あるいは聴衆にも、芸術作品を理解する能力が要求されるようになっていったことは必然と言えます。 もちろん、「芸術音楽」の他にも、それぞれの時代のポピュラー音楽(世俗音楽)は存在していましたし、純粋に音楽を享受するためには、特別に聴取方法の訓練を受ける必要はないのですが、訓練を受けた音楽家の耳(聴覚)は、どんな風に音楽を聴いているのか、あるいはどんな風に音楽が聞こえるのか、ここで考えてみたいと思います。

どんな風に音楽を聴いているのか、あるいはどんな風に音楽が聞こえるのか。これは即ちどのように音(楽)を認識しているのか、ということに他なりません。「聴く」というのは能動的な行為で、聴き取ろうと注意を傾ける、選択的に聴取するということです。そのような聴取の訓練が身体化した時点で、自然と受動的にも「聞こえて」くるようになります。

今回の題材の西洋クラシック音楽のポリフォニー作品の聴取の場合を例に挙げてみましょう。ポリフォニーの楽曲の演奏は、様々な楽器奏者が一緒に演奏するアンサンブルや、オーケストラの形態もありますが、単音の楽器の演奏者を含めて音楽家は、自分の(一つの)パートだけを集中して聴いているだけでは十分ではありません。指揮者や曲を創った作曲者のように、鳴り響く音楽全体を聴きながら、自分のパートをその中に位置付けて聴き、自分の演奏をコントロールしていくことが要求されるのです。 鍵盤楽器についても同じことが言えます。ピアニストやオルガニスト、チェンバロ奏者等は、1人のアンサンブル、そしてオーケストラです。下の楽譜は、J.S. バッハの平均律クラヴィーア曲集の中のcis-mollの5声のフーガBWV849です。

Audio2


譜例

フーガの主題が5つの声部で次々に提示されたのち、模倣、拡大、縮小、その他の形で展開されていきます。譜例は5声部全てが出揃うまでの冒頭部分で、声部ごとに色分けしてあります。奏者はそれぞれのパート全てを並行して同時に聴きながら、主題を特に意識して演奏していきます。今回は、よりそれぞれのパートの音色を区別するために、管楽器アンサンブルとして音資料を作成していますので、ぜひピアノその他の鍵盤楽器の演奏バージョンと比較して聴いてみることをお勧めします。

素晴らしい演奏者は、10本の指で、幾つものパートの音色や調子をあたかも違う楽器のように弾き分けることができます。冒頭で聖徳太子の例を出しましたが、訓練によって音楽家も複数の音を聴き分けることができるようになるのです。モテトゥスの例も、複数の言語を同時に理解することは不可能であっても、複数の旋律を聴き分けることは音楽家にとっては決して難しいことではありません。

音楽的な耳はどうやって作られるか

人間の、音楽を聴く耳の形成は、いつから始まるのでしょうか。生まれてくる前、つまり母親の胎内にいる時から、胎児は音楽を聴いている母親の気分に影響を受けるだけではなく、音楽を聴いて記憶する、さらには音楽に合わせて歌うことさえできるという説もありますが、「音楽家の耳」、「音楽的な耳」は、幼少期の教育やトレーニングから徐々に形成されていきます。最近では、日本でも0歳児から通える乳幼児向けのリトミック教室や、リトミックの時間を設けている保育園をよく見かけますが、そこでは音楽教育というよりは、音楽に運動機能の発達や、情操教育、学習能力の発達を促す効果が期待されています。音楽家の耳が発達していくのは、5、6歳からと言われ、例えばロシアでは、各地に音楽小学校があり、未来の音楽家を目指す子供たちに専門的な教育が行われています。

では、作曲家や演奏者、音楽学者に共通して必要な能力は何でしょうか。その必須条件の一つが「音楽的な耳」を持つことです。「耳がいい」、ということは実際には何を指しているのでしょうか?若い人だけが聞き取れる(老化すると聞き取りづらくなる)モスキート音が聞こえる、あるいは人より広い音域や小さい音が聞こえる、というのも、ある意味正解でしょう。ですが、音楽家にとって「あの人は耳がいい」、ということには別の要素があるように思われます。加えて言えば、リファレンスなしで、音を聴いただけで音名を判断できる絶対音感を持つこと、とも一概には言えません。

音楽的な耳を持つということは、単純にその場のリズム感や音高、音の強弱や性格、音色等々、音楽の様々な要素の機微を感じ取って相応しいレベルでアウトプットできるような「センス」の良さを持つこと、に近いかもしれません。その意味では、総合的な能力全体を指しているといえるでしょう。またそれは、感覚的な意味でのセンスの問題のみではなく、多くの音楽を聴く経験の積み重ねによって培われる、良いものを聴き分けられる能力であったり、聞いた曲を楽譜に正確に書き起こす聴音や、楽譜を見て瞬時に正確に(!)歌ったり演奏するソルフェージュの訓練に基づいて習得された技術的要素を含めて形成されていくもので、基礎的な技術を体得して初めて、自由に操ることのできる能力だと言えます。

こうした能力が「耳」、あるいは聴くことにどのような影響を与えるかといえば、それによって作曲家の場合は、曲を頭の中でテキストとして聴き、そのイメージを楽譜に起こすことができ、演奏家はイメージする音を頭の中で聴き、それを鍛えた身体技術で正確に演奏にアウトプットしようとし、音楽学者は音楽を耳で追いながら、それを意味として聴き、分析的聴取を行うことが可能になるのです。つまり、音楽的な耳とは、耳に入ってくる音を聴くという物理的・外的な意味だけではなく、内的な耳のことでもあるのです。

頭の中で音楽を聴く

そもそも、人が音を聴くとき、耳から伝達されて脳に届く音とは、「聴覚器官による刺激の需要と中枢の聴覚神経系による処理の結果、脳での主観的感覚として生じたもの」※2であるため、同じ音や音楽が同時に聴取される場合であっても、実際に聴かれている音楽のイメージというものは、個々人で十人十色です。従って、音楽という現象、そして音楽の聴取は、非常に個人的なものであると言えます。

逆に、頭の中で音をイメージして、それを現実世界の音としてアウトプットするのが、作曲家や演奏家です。そこには脳から身体への脳情報の伝達の過程や、運動機能といった問題が間に入りますので、イメージに近づけた音を作り出すことは可能であっても、イメージそのものを具現化させるのは至難の業です。表現したい音を出すためには、それを可能にするための身体的なトレーニングが欠かせません。しかしながら、音楽を意味のあるテキストとして認識するためには、楽器を鳴らして出た音だけを聴いたり、弾きっぱなしにするのではなく、音楽的な耳を持って、頭の中で音を聴く、音楽を想像するということが重要なのです。


※2 谷口高士『音は心の中で音楽になる-音楽心理学への招待』 北王子書房、京都、2000年、p.101

参考文献

  1. Старчеус М.С. Слух музыканта. - М.:2003. Моск. Гос.консерватория
  2. 谷口高士『音は心の中で音楽になる-音楽心理学への招待』 北王子書房、京都、2000年

(文責=森谷 理紗)

Profile

森谷 理紗 / Risa MORIYA
神奈川県生まれ。北鎌倉女子学園高校音楽科卒業。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院音楽研究科修了。グネーシン音楽アカデミー研修(音楽史・音楽理論)を経てP.I.チャイコフスキー記念モスクワ音楽院大学院博士課程学際的音楽学研究科修了(芸術学/音楽学博士)。2010年度外務省日露青年交流事業<日本人研究者派遣>受給。その後同音楽院作曲科3年に編入、その後卒業。モスクワ音楽家協会150周年作曲コンクールグランプリ。著書”Vzoimoproniknovenie dvyx muzikal’nyx kul’tur s XX - nachala XXI vekov : Rossia- Iaponia(20世紀から21世紀初頭にかけての二つの音楽文化の相互作用:ロシアと日本)”(2017 サラトフ音楽院)で第2回村山賞受賞(2018)。モスクワ音楽院客員研究員を経て、大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員研究員。