脳・からだ・こころ -SBS Archive- No.8
遠隔時代の身体(前編)
視覚障がい者との接触コミュニケーションを通じて遠隔コミュニケーションの可能性を探る
Asa ITO & Makio KASHINO
2021.9.27
美学者として人間の身体の研究をしている伊藤亜紗さんは、それぞれの身体の固有性に着目したうえで、コミュニケーションの問題について考察している。とくに、コロナ禍で普及したオンライン会議などの遠隔コミュニケーションの課題と可能性について探っている。その一つのヒントとなるのが、障がい者とのコミュニケーションだ。触覚が抜け落ちた遠隔コミュニケーションの課題と、その新たな可能性について語った。※本講演と対談は、NTTコミュニケーション科学基礎研究所オープンハウス2021の招待講演の内容をもとに構成しています。
コロナ禍で日常となった遠隔コミュニケーション
コロナ禍を経験したこの1年半で私たちの身体に起こった大きな変化と言えば、「遠隔」という条件が加わったことでしょう。会議も大学の講義もほぼすべて遠隔になり、日々の生活は大きく変わりました。
そうしたなかで先日、私が担当している芸術の授業で、ある学生が私の似顔絵を描いてくれたことがありました。その学生は画面越しに見る私の上半身しか知らないこともあり、その絵は、顔と上半身は私でしたが、下半身は動物だったのです。彼からすれば、私の下半身は四本足かもしれないと思うほど、リアリティのない存在だということでしょう。それくらい身体的なリアリティのない状況下で、私たちはずっとコミュニケーションを取ってきたというわけです。
この生活がもう少し続くとしたら、人と人のコミュニケーションは今後どうなっていくのでしょうか――。本日は、この点について考えてみたいと思います。
私自身は生物学の出身なのですが、現在は東京工業大学という理工系の大学で、人文系(美学=Aesthetics)の研究者として身体の研究をしています。そのなかでつねに気になっているのが、理系であれ、文系であれ、身体の研究において、「人間の身体とはこうである」と一般化されがちな点です。それは何か違うんじゃないかと思っているんですね。なぜなら、現実の人間の身体は一つとして同じではなく、皆違っているからです。その差をちゃんと研究したい、というのが研究者としての私のモチベーションになっています。
そこで取り組んできたのが、障がい者への聞き取り調査です。たとえば、視力がまったくない人は世界をどのように見ているのだろうとか、下半身に障がいのある人は世界をどう見ているのだろう、身体をどのように使っているのだろう、といったことを、当事者に直接聞いて調査をしています。
障がいのある方々に関わると頻繁に体感するのが、接触を介したコミュニケーションです。たとえば視覚障がい者の方と一緒に外を歩くときには、自分の肩をお貸しすることになりますが、そうすることで、お互いの目を見て交わすコミュニケーションとはちょっと違う人間関係が生まれてきます。このような触覚を介したコミュニケーションを考えることを通じて、触覚がまったくない現在の「遠隔」のコミュニケーションについて考えてみたいと思います。
「さわる」と「ふれる」の違い
触覚について考える際に私がヒントにしているのが、英語で言うところのTouchに相当する触覚を表す日本語の動詞、「さわる」と「ふれる」です。皆さん、普段はとくに意識をせずに使っていると思いますが、この二つの言葉はニュアンスが微妙に異なります。
たとえば、「傷口にさわる」と聞くと、ちょっと手を引っ込めたくなるというか、なんだか痛そうな感じがすると思うんですね。これに対して、「傷口にふれる」というと、我慢しようかなとか、手当てをしてもらえそうだな、という感じがするのではないでしょうか。つまり、「さわる」というのは、モノに対するように一方的な接触なんですね。接触しようとする人が考えるままに計画通りに接触するというのが「さわる」。それに対して、「ふれる」は双方向で、接触する人が、相手が緊張しないかなとか、痛くはないかなといったことを考えながら接触の仕方を微調整する、それが「ふれる」です。人間的な心の交流がそこに入ってくるわけです。
しかし、これは一筋縄ではいきません。たとえば、病院で医師が患者の身体を触診する際は、相手は「人間」でありながらも、やはり「さわる」と言ったほうがしっくりくるように思います。医師というのは、専門知識を持って、サイエンスの対象として患者の身体を診ているわけで、一方的な態度のほうがむしろ正しいように思います。医師が患者の気持ちを忖度して接触してきたら、患者側はちょっと気持ち悪いと感じるのではないでしょうか。
ところが、これは西洋医学の場合であって、東洋医学になるとまたちょっと事情が違ってきます。東洋医学では、むしろ「ふれる」に近いものになります。専門用語で言うと、西洋医学では「触診」ですが、東洋医学では「切診」であり、東洋医学的に患者の身体をさわる際には、西洋医学のように臓器の状態を確かめるというよりも、患者の反応から身体全体の状態を診ます。したがって、患者が触られてくすぐったいと感じたら、それがその人の状態を現す重要な情報となる。このように、身体観の違いによって、接触のあり方も変わってくると言えるでしょう。
「伴走者」の経験、「視覚障がい者」としての擬似体験
先述の障がいを持っている方たちとの接触では、よりディープな人間関係が築かれることになります。私がとくに衝撃を受けたのが、視覚障がい者の伴走の経験です。視覚障がい者の方が長距離を走るときには必ず伴走者がついて一緒に走るのですが、このとき、障がい者と伴走者を結ぶのが輪っか状にしたロープです。このロープのその片方の端を視覚障がい者のランナーが、そしてもう片方の端を伴走者が持って、(ロープを通じて)手の動きをシンクロさせて走ります。
このロープはただの紐にもかかわらず、たいへん情報伝達力があります。たとえば、前方に急な坂道が見えたとします。すると、それは視覚障がい者にもわかってしまう。なぜなら、坂を見た伴走者がウッとなって、「あ、坂だ、イヤだな」と感じた緊張が、ロープを介して視覚障がい者に伝わるからです。これは「伝える」ではなく、「伝わる」であって、言葉にする前に、そして本人が意識するより前に、伴走者の身体的状態、情動、感情がロープを介して視覚障がい者にスッと伝わります。つまりこのロープは、言葉より速く、かつ繊細なコミュニケーションを可能にするツールであり、接触によるコミュニケーションだからこそ実現できるものと言えます。
さらに私にとって衝撃の度合いが強かったのが、自分がアイマスクをして、健常者の人に伴走をしてもらった経験です。最初はめちゃくちゃ怖いんですね。これまで晴眼者として生きてきたため、目が見えない状態で運動するなんて信じられないという感じでした。ただ、数分で諦めて身を委ねると、そこから先はものすごい快感が訪れたのです。
その快感の大きな部分を占めたのが、伴走者への信頼です。自分の身体の安全を、伴走者を信じて任せようと思ったときに、快感を感じたんだと思います。普段の自分の生活のなかで、職場の同僚や家族を信頼しているつもりでしたが、その信頼にはもっと奥行きがあって、こんなにも人のことを信じられるんだと知って驚きました。そうなると相手の情報がワッと入ってくるし、自分のことも相手に伝わってしまう。これまで味わったことのない、触覚的な人間関係を知った初めての経験でした。
「信頼」と「安心」の異なるベクトル
信頼ということに関連して言うと、社会心理学でよく言われるのが、「信頼」と「安心」はまったく違うという議論です。この二つの言葉は、一見似ているように思いますが、ベクトルはまったく逆を向いています。たとえば、数年前に、うちの大学に、ご両親にGPS発信器を渡されていて、現在地を常に把握されている学生がいました。最近では恋人同士で位置情報を把握できるアプリを入れている人もいるので、もはや珍しいことではないのかもしれませんが、それって、安心ではあるけれど、信頼はされていないという気がします。
「安心」は、自分とは違う相手の社会的な不確実性をなるべくなくそうと、管理する方向に向かいます。これに対して、この人はどういうことをするかわからないけれど、おそらく大丈夫だろうと任せるのが「信頼」です。
ちなみに、テクノロジーは安心=管理のほうが得意です。そして、任せる=信頼を侵食していく可能性がある。100%の安全などはあり得ないし、安心を実現するためにはものすごくコストもかかりますから、じつに非合理的です。そう考えると、安心と信頼のバランスをうまくとっていくことが重要なんじゃないかと思っています。
これは、障がいの世界でも同様で、信頼が非常に少ないと感じます。障がいを持ったり、病気になったりした途端、人から信頼されなくなるということが起こるのです。たとえば、若年性認知症の当事者の場合、当事者の集まりなどに行くと、周りの人が全部やってくれると言います。お弁当を食べようとすると、健常者がサポートして、お弁当を持ってきてくれて、蓋も取って、お箸も割って、「はい、どうぞ」と渡してくれるという。確かに、本人がやれば途中でお弁当を落とすかもしれないし、時間もかかるかもしれません。不確実な要素が増えるわけです。しかしやはり、自分で進んでやったほうが美味しく感じられるし、挑戦してできたという喜びが感じられるのではないでしょうか。このように、障がいの世界では、いつも周りが安全を考えて、挑戦するチャンス、言い換えれば失敗するチャンスを許さない状況をつくっていると言えます。
「伝達モード」と「生成モード」
このことをコミュニケーションの観点から考えていくと、私たちのコミュニケーションというのは、大きく分けて二つのモードが存在すると言うことができます。一つは「伝達モード」です。伝達モードというのは、メッセージを伝えたい発信者がいて、それを受信者に伝えるという一方向のコミュニケーションであり、役割分担も明瞭です。
もう一つのモードは、「生成モード」です。こちらは、発信者のなかに明確に言いたいことがあるわけではなく、お互いに接触しながら、やり取りしているうちに、なんとなく言いたいことが生まれてきて、メッセージが生成されていくコミュニケーションの姿です。たとえば、食事中の雑談などは、ほとんどが生成モードでしょう。何か話をしようと思ったけれど、相手が違う話題を振ってきたので自分もその話に乗ったり、どんどん話題が変わっていったり、まさに次々に生成されていくコミュニケーションの姿です。
ところが、障がいの世界では、圧倒的に伝達モードが多くなってしまう。健常者が、障がい者に、「こっちですよ」とか「そこ注意してくださいね」とか、ひたすら伝達をすることになります。そうして生成モードがなくなってしまうのです。
この二つの違いを、最初にお話した二つの接触の動詞、「さわる」と「ふれる」に対応させると、伝達が「さわる」で、お互いが探り合うという意味で、生成が「ふれる」になります。
現在、私たちが生きている遠隔的なコミュニケーションの世界のなかで考えると、言語による伝達はほぼ問題なくできるでしょう。ところが、やはり生成モードは難しい。オンライン会議では、雑談はしづらいですよね。結局、なんとなく進行役が決まり、一人ひとりに声をかけて発言してもらうというスタイルになりがちです。おそらく、リアルで生成的なコミュニケーションをする際には、ごく小さな互いのサインをキャッチしているのでしょう。この人は何か言いたいことがありそうだから、ちょっと待ってみようといった具合に、コミュニケーションの仕方を調整している。ところが、遠隔ではどうしても伝達モードに傾いてしまいます。結果として、信頼関係が築きにくくなる。それがいま、私たちが直面している課題と言えるでしょう。
視覚に頼らない新たなスポーツ観戦のあり方
さて、この生成モードに関して、私はNTTコミュニケーション科学基礎研究所の渡邊淳司さんとサービスエボリューション研究所(当時)の林阿希子さんとともに、2 年ほど前から共同研究をしています。テーマは、視覚に障がいのある方とのスポーツ観戦です。従来の観戦体験は、言葉による実況中継がメインで、たとえば、「いま、シュートが決まりました!」とか、「●●選手が右手に向かってパスを出しました」といったように、健常者が言葉で説明し、それを聞いて障がい者が想像して、状況を理解するといったものでした。もちろん、そこには独自の語りの文化があって、ファンが多いのも事実です。
しかし、語りだけでは臨場感がないという当事者の意見もありました。やはり、動作の微妙な質感までは言葉では伝えることができませんし、実況中継だけでは限界があります。そこで、観戦自体を生成的にできないだろうかと思い、情報の受け手である受信者を傍観者にしないためのコミュニケーションのしくみを考えることにしました。
このときに使うのが触覚です。たとえば、手拭いを使って柔道の観戦をします。次の動画では、晴眼者2人と視覚障がい者1人で生成的に柔道を観戦している状況です。
これは何をしているかというと、手拭いの両端を持つ晴眼者がそれぞれ担当の選手の動きを担って、選手の上下の動きや引っ張る動作を表現します。そして視覚障がい者は手拭いの真ん中を手で持つことにより、両選手の駆け引きを身体ごと引っ張られながら観戦します。
もちろん、この方法は言語による鑑賞に比べるとかなり雑です。大外刈が決まったなどという具体的な技まで伝えることはできません。しかし、言葉ではフォローしきれない、お互いの駆け引きに巻き込まれるような感覚を体感することができます。なにしろ、手拭をしっかり手に持っていないとするっと抜けてしまうので、視覚障がい者の方にも参加の姿勢が求められます。これを私たちはジェネラティブ(生成的)・ビューイングと呼んでいるのですが、巻き込まれていく感じこそが生成には重要であり、従来の実況中継とはまったく違う観戦体験を提供できるのではないかと思っています。
「見えないスポーツ図鑑」が示すもの
この研究は、その後、「見えないスポーツ図鑑」というプロジェクトに発展しました(詳細は『見えないスポーツ図鑑』〈伊藤亜紗・渡邊淳司・林阿希子著 晶文社〉にまとめられています)。これは、視覚障がい者の目線でスポーツ観戦を捉え直す試みです。具体的には、10種目のスポーツのトップ選手やコーチにお声がけして、まず、その方がスポーツをしているときにどんなふうに感じているのか、実感についてヒアリングをしました。たとえば、ラグビーでスクラムを組んでいるとき、選手は皆、下を向いて、皆で触れ合いながらどちらに押そうかとか、戦略を立てていますよね。そういう、視覚ではわからないスポーツの顔、側面を取り出せたら面白いのではないかと考えたのです。
そして選手たちから聞いた実感を、私たちが100円ショップなどで買ってきた日用品を使って表現しました。たとえばフェンシングの場合、アルファベットの木片を使ってフェンシングを翻訳します。アルファベットの木片なんて、フェンシングとはまったく違うじゃないかと思われるかもしれませんが、実際にフェンシングをしている方によれば、このアルファベットの木片を絡ませて外そう/外させまいとする駆け引きのなかに、「フェンシング感」がじつに良く表現されているとおっしゃっていました。その様子を収めたのが、次の動画です。
分身ロボットOriHimeを使った実験から見えてきたもの
さて、ここで改めて現在の遠隔の時代について考えてみると、やはり生成的なコミュニケーションを意識的にしていかないと、信頼関係に影響が出るのではないかと思っています。一方で、遠隔から見えてきた可能性についても言及したいと思います。
現在、私はOriHimeという、遠隔で操作する分身ロボットを使った研究をしています。よく、ニュースなどで紹介されているのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、このOriHimeを活用して、病気や障がいで外出することが難しい方が、旅行に行ったり、カフェで働いたりしています。
働き方もさまざまで、たとえば、最近ではミカン畑で収穫の手伝いをしたという方にお話を聞きました。分身ロボットとは言うものの、動くのは手くらいなので、どうやって収穫の手伝いをするのかと思ったら、実際に作業をしている人の会話の相手をするのだそうです。ミカンの木は急な斜面に生えていて、収穫の作業は重労働なんですね。しかも、たいてい一人で黙々と作業をすることになります。ところが、OriHimeを通じて誰かと会話をすると、収穫作業が捗るのだと言います。このお話をお聞きして、こんな働き方があるのかと、たいへん驚きました。
そこで、このOriHimeを使って、遠隔の時代ならではのコミュニケーションの新たな可能性を探ろうと、ダンサーで振付家の砂連尾理(じゃれおおさむ)さん、そしてロボットのパイロットである「さえさん」という方と一緒に共同研究をしているのです。
その実験の一つが、私たちが分身ロボットを抱いて、ただひたすら一緒に散歩をするというものです。最初に、東京・国分寺の「お鷹の道」と呼ばれる湧水地を訪れたのですが、その湧水を砂連尾さんが飲んだ瞬間、「さえさん」が分身ロボットを通じて言ったのが、「飲んでいるときの喉のアップをよく見せてください」というオーダーでした(分身ロボットにカメラが搭載されていて、ロボットを通じて外界の様子を見ることができます)。「さえさん」は、砂連尾さんが水を飲んでいるときの喉の動きから、その水がどんな水なのかがわかるとおっしゃっていました。つまり、言葉でどんな水かを伝えるよりも、その水を飲んでいるときの身体の反応のほうが伝わるものがあるということなんだろうと思います。そういう、人の反射的な反応のほうが(言葉よりも)面白いと、「さえさん」は言っていました。
そのほかにも、一緒にたこ焼きをつくったり、爬虫類が好きだという「さえさん」の希望で爬虫類カフェに行ったりしたこともあります。さらには、「さえさん」が普段しているメイクを砂連尾さんが真似するといった実験もしてみました。
こうした実験を通じてわかったのは、「さえさん」が「存在」という言葉をよく使うことです。私たちはリアルの「さえさん」には一度も会ったことがないので、実在は知らないんですね。でも、「さえさん」の存在は分身ロボットを通じてすごく感じています。「さえさん」自身は、「外出できないためずっと家にいて、自分の存在を誰かに触れて欲しいと強く思っていた」そうです。それが、OriHimeを使うことによって、自分の存在を人に認識してもらい、一緒にいる感覚を感じられる、そのことがとても重要だと言っていました。このように、実在には触れられないけれど、存在には触れられるということはあって、これはもしかすると生身の人間を前にするよりも、むしろその人に思いを馳せることのできる方法なのではないかと感じました。実験を通じて、遠隔だからこその可能性を見出せたように思っています。
究極の遠隔コミュニケーションについて考える
さらに砂連尾さんと、こうした実験を経て、すでに亡くなった人との究極の遠隔コミュニケーションの可能性について考えています。砂連尾さんは数年前にご両親を亡くされていて、亡くなってからの方がそれぞれの存在を近くに感じることがあるのだそうです。そして「さえさん」との実験をきっかけに、遠隔の存在との関り方について考えるようになったのだという。実在と存在は別のものであって、存在を感じられることこそが「そこにともにいる」という感覚につながるのではないか、と思っています。
東京都立大学の教授で成人看護学の研究をされている西村ユミさんのご研究も、一つのヒントになります。西村さんは、植物状態になってしまった患者さんの看護をしていた看護師さんの語りを収集されているのですが、そのなかに興味深いエピソードがありました。植物状態で長い間過ごされて、そして亡くなった患者さんのお世話をしていた看護師さんが、亡くなった後も手に残る患者さんの感触をよく思い出すというのです。
私自身、視覚障害者の方とお会いして、身体を接触すると、3日くらい何かボワーンとするような感触が残っていることがあります。触覚の記憶というのは、それほど強いものなのです。
そして、その看護師さんは、自分が患者さんを触っていると思っていたけれど、じつは患者さんに自分が触られていたのかもしれない、と言います。つまり、互いに触れ合っていたんじゃないか、と。植物状態なので、身体を自由に動かすことはできないけれど、患者さんの身体を自分が支えているようでいて、患者さんの側も身を委ねようと頑張ろうとしていた、それが触れ合いというかたちで記憶として残っているんじゃないかと語っていらっしゃいました。
亡くなってからも触覚的な関係は続いていて、しかも関係性は変わっていく。もう実体はないけれど、触覚を通じて、患者さんに対する見方まで変えるような関係性が続いていると言えます。これが本当の、究極の遠隔コミュニケーションの姿と言えるのかもしれません。
(取材・文=田井中麻都佳)
Profile
東京工業大学 科学技術創成研究院 未来の人類研究センター センター長
リベラルアーツ研究教育院 教授
環境・社会理工学院 社会人間科学コース 教授
編集・ライター/インタープリター。中央大学法学部法律学科卒。科学技術情報誌『ネイチャーインタフェイス』編集長、文科省科学技術・学術審議会情報科学技術委員会専門委員などを歴任。現在は、大学や研究機関、企業のPR誌、書籍を中心に活動中。分野は、科学・技術、音楽など。専門家の言葉をわかりやすく伝える翻訳者(インタープリター)としての役割を追求している。趣味は歌を歌うことと、四十の手習いで始めたヴァイオリン。大人になってから始めたヴァイオリンの上達を目指して奮闘中。