脳・からだ・こころ -SBS Archive- No.8

遠隔時代の身体(後編)

固有な身体性と遠隔コミュニケーションについて考える

Asa ITO & Makio KASHINO

2021.9.27

後編では、前編の伊藤亜紗さんのご講演に続き、柏野牧夫フェローと対談していただいた。両者とも、人間(身体)の研究をするうえで、出発点となっているのが固有な身体へのまなざしだ。人それぞれの違いに着目しつつ、共通項を見出していくことで、人間への理解を深めようとしている。多様な人間同士のコミュニケーション、とくにコロナ禍でデフォルトになった遠隔コミュニケーションについて、その課題と可能性について議論した。
※本講演と対談は、NTTコミュニケーション科学基礎研究所オープンハウス2021の招待講演の内容をもとに構成しています。

「人は皆違っている」を研究の原点にする意味

柏野: 非常に面白いお話をしていただき、ありがとうございました。私自身、基本的な関心事は伊藤さんとほぼ重なっています。人間は皆同じじゃないという、身体の固有性、多様性を研究の出発点にしているというところが非常に重なっていて、共感しつつお話を伺いました。アプローチや素材は異なりますが、私自身ももとは聴覚の研究者なので、視覚偏重主義を問い直すというのも、たいへん共感したところです。

伊藤: ありがとうございます。

柏野: 私は現在、スポーツをテーマに、とくにプロ野球選手やオリンピックの代表選手など、トップアスリートを対象に研究をしています。一方、自閉スペクトラム症の研究も手掛けていて、そういう方たちの感覚や知覚、運動などについても調べています。自閉スペクトラム症の方はコミュニケーションに問題があると言われることが多いのですが、じつはそれ以前に、感覚や身体の問題を抱えていることが多い。そうした特異な身体性を通じて、一般の人の身体を捉え直そうとしています。

伊藤: 柏野さんの場合、最初に、「人はそれぞれ違う」ということを研究のテーマに組み込もうと思ったきっかけが何かあったのでしょうか?

柏野: 一つには、人間相手の実験系の基礎研究が、平均があって分散があって、という通常のモデルに囚われすぎていると思ったからです。実際に人間を見てみるとそうではないし、自分自身、いわゆる典型的な人間だとは思わない。でも、この自分を引き受けて生きていかなければしょうがないし、自分の来歴は書き換えようもありません。自分の身体の特性と折り合いをつけていくためには、一般論を聞いてもあまり役に立たないというところがあったのだと思います。

伊藤: その「どうしようもなさ」って、重要ですよね。自分の身体がこうであることに何の責任もないし、偶然こうして生まれてきたのに、一生かけてその偶然を必然化していかなきゃいけないわけですから。

柏野: そうですよね。そして、その固有性がいいとか悪いとか、簡単には言えないじゃないですか。ある状況下である目的においては良いことが、別の状況下では悪いということがある。だから正常/異常という概念も非常に怪しいものだと思っています。

だいたい、トップアスリートの方々に接していると、二人として同じ人はいないし、その人自身の偏りをうまく活かせている人が活躍できていると感じます。だからたとえば誰かに投げ方や打ち方を教えられても、共感してすぐにできるようになるかと言えばそうではありません。結局、人はそれぞれそれなりに違っている、というところから出発しないと何も始まらないと思っています。

脳の機能分化と可塑性について

伊藤: パラリンピックを見ていると、「ヨーイ、ドン!」で走り出しても、皆、全然違う動きをしますよね。その差がめちゃくちゃ大きくて、それぞれがその人にとっての最強の走りというものを見せられている気がします。それは結局、オリンピックのトップ選手でもそうなんでしょうね。

柏野: まさにそうです。パラリンピックはそれがより顕在化していて、何がフェアかと議論するのが難しいくらいあからさまに違うけれど、オリンピックも似たようなものでしょう。陸上のウサイン・ボルト選手だって、先天的に背骨が曲がっていて、それを活かした独特な走法で人類最速の記録を出したわけで、要はあるゴールに対する解き方というのは人それぞれなわけです。そうしたことは記録や障がいといったものに埋没しがちですが、じつは本来、皆、非常に多様なのです。

伊藤: 脳にも個性というか、違いがあるということですか?

柏野: はい。しかも脳には当然、可塑性があって、それもじつに多様です。もちろん誰しも遺伝的にある特性を備えて生まれてきますが、そこからどういう環境に晒されるかによって、いかようにも変わっていく。発達障害もそうで、先天的な脳の特性はあるにせよ、それがどのように環境とインタラクションするかによって、発達過程が決まるわけで、その後も来歴を引きずっていきます。つまり、元となる種はあるにせよ、環境とインタラクションすることによってその人が形づくられていく。結局、その人の特性を理解するには、可塑性をコントロールしているパラメータと、どのような経験をしたかということ、その双方を突き詰める必要があります。

伊藤: なるほど。

前から気になっていたのですが、脳には言語野とか視覚野とか、部位ごとに機能を担うと言われていますよね。あれは本当なのかな、と思っているんですね。たとえば、話をしているときに言語野が発火すると言うけれど、可視化された画像などをよく見るとけっこう適当ですよね? 別の場所も光っていたりして。現象と説明がズレていることが多いなと感じています。

柏野: それは非常にズレていると思います。もちろんある程度の機能は局在していて、視覚野は後頭葉にあるとか、大まかには分化しているけれど、見る際に、その部分しか活動していないというわけではありません。よく、視覚の研究者が脳の何割は視覚に関係していると言ったりしますが、それは聴覚だって同じで、何かを聞いているときは、脳のさまざまな部位が動員されていて、それらが連動して状況に応じて目的を達成しているわけで、この部位が活動したら聞こえる、といった単純なものではないんですね。

さらに言えば、脳の可塑性というのは非常に強力です。2000年に、マサチューセッツ工科大学のグループが、生後間もなく網膜からの経路を視床※領域に接続する手術を行ったフェレットでは、視床の聴覚領域と大脳皮質の聴覚野に視覚刺激に対応する反応が見られ、それに基づいた行動が生じたという論文を『Nature』に発表しています。これは極端な例ですが、いかに環境と経験が重要かということを物語っている事例と言えるでしょう。つまり、生まれつきここが視覚野だと固定しているわけではないのです。

伊藤: 面白いですね。私の知り合いに、交通事故で腕を引き抜き損傷した人がいて、手術によって手を動かす神経が肋骨の下の神経とつながっているのですが、最初は手を動かすたびに肋骨を動かそうと意識する必要があったけれど、だんだんに手を動かそうとすれば手が動くようになったと言っていました。常に変化していく柔軟性、つまり可塑性があるというのは、人間の意識と無意識の境界を考えるうえでも非常に興味深いですね。

※視床は間脳の一部を占める部位で、視覚、聴覚、体性感覚などの感覚入力を大脳皮質へ中継する役割を担う。

固有な身体を手に入れるプロセスに意味がある

柏野: じつは意識と無意識については、私自身、その乖離に非常に興味を持っているのです。

伊藤: 乖離?

柏野: そう、乖離。私たちは日常の暮らしのなかでいろいろな意思決定をしているけれど、意識的にやっているように見えて、じつのところは身体的なものがかなり介在しているわけですよね。しかも、それがズレていたり、意識のほうが丸め込まれて後付けであったりします。それを、本人にそのとき感じたことを聞きつつ、一方で、なるべく客観的に何が起きているかを外から計測して分析しているのです。すると、トップアスリートといえども、自分がこう動いているだろうと意識していることと、実際の動きが、まったく違うことが往々にしてあります。野球のようにインタラクティブなスポーツでは、ほぼ0.5秒以下で物事が決まる世界なので、その瞬間で何が起きているのかを調べているわけですが、本人が意識している内容と実際は乖離している場合がほとんどなのです。

伊藤: そうなんだ!?

柏野: それが非常に面白くて、自分自身も下手の横好きで毎日、野球の練習をして、計測したりしているのです。

伊藤: 毎日ですか?

柏野: そう、ほぼ毎日です(笑)。

伊藤: すごいですね。

柏野: 人からは、何をめざしているんですか、などと言われますが、今日、伊藤さんのお話を聞きしていて、その理由がわかった気がするんですよ。自分自身の可塑性自体を楽しんでいるというか、新たな身体感覚を得ること自体が楽しいんだと思います。だからもし一足飛びに、大谷翔平みたいな身体やパフォーマンスを手に入れたとしても、その瞬間は「おぉ、すごい!」と思うでしょうけど、結局のところあまり面白くないんだろうと思いました。なぜここまで中毒みたいに練習しているかと言えば、やはり自分の身体の新しい可能性を追求したいというのがあるからだろうと。だから今日のお話は腑に落ちるところが多くありました。

伊藤: 私、そんな話をしましたっけ?(笑) でも、私もそういうところにめちゃくちゃ感心があるので、そこまで読み取っていただいたとしたら、とても嬉しく思います。

柏野: つまり、障がいを持っている方が、それを補って健常者のようになるのがゴールではない、ということだと思うんですね。誰しも、自分の身体がこうであることはしょうがないけれど、そのなかでどういう可能性があるのかとか、もっとうまい使い方があるんじゃないかとか、追求していくのが面白い。その結果として、固有な身体を手に入れることになる、という。

伊藤: あぁ、なるほど。私の研究テーマの一つに、中途障がいというのがあるんですね。先天的に障がいのある方と中途の人では、まったく違います。先天の方は、もともとそれが当たり前なのでほとんど葛藤はありませんが、中途の人は、記憶として知っている健常者の身体と、なんらかの障がいを持つ現在の身体と、二つの身体を持っているので悩ましい。つまり、マシン本体とOSにギャップがあるわけです。OS自体は健常者なので、それをどう現在の身体と一致させるのか、併用するのか、あるいは改造するのか、人それぞれギャップに対するアプローチが異なります。

典型的なのが幻肢です。実際はもう手がないのに、いまも存在していると感じていて、その幻肢を意識のなかで動かせる人もいます。なかには指でカウントできる人もいて、幻肢を自在に動かせる人ほど、幻肢痛が緩和されるようです。つまり、二つの身体をうまく併用しているわけですね。

あるいは途中で全盲になった方で、天文学にとても興味があった人がいるのですが、その方はデータを扱うお仕事をされていたこともあって、目が見えなくなってもデータを通じて星を眺めることができるとおっしゃっていました。たとえば、超新星の爆発の現象をデータから読み解き、まるで自分の手の上で爆発する感じを味わっている、と。ご自身が仕事で持っていたスキルを転用して、「見る」ということを実現されている。障がいによって変わった部分を、そうやってうまく補ったり、定義し直したりということを、皆さんとてもうまくやっていらっしゃいます。

柏野: そういった柔軟性が人間の本質だし、生きがいとかウェルビーイングにもつながる、重要な構成要素なんだと思います。刻々と状況が変わり、自分も変わり、とはいえいろいろ引きずっているものがあり、そのなかでどうやっていくのかというのが、その人固有の面白い経験になっていくのだろうと思っています。

伊藤: 変わっていくことを、もっとポジティブに評価したいですね。

探索の際にノイズを内包していたほうがいい理由

伊藤: さきほどの、スポーツの話をもう少し聞かせてください。トッププロでも、意識で感じていることと、実際にやっていることは違うということでしたが。

柏野: 現在、私たちが開発し、プロの現場で好評を博している道具に、ハイスピードカメラで身体の動きとボールの物理的な回転の状態を撮影して、それを解析してその場で表示できるシステムがあります。なぜ、現場で喜ばれているのかと言えば、たとえばカーブを投げる際に、こういう動きでトップスピンをかけたと思っていても、じつはそうはなっていなくて、全然違う動きをしていた、なんてことがよくあるからです。自分が何をやっているのかを、その場でフィードバックされると、自分の動きとボールの物理的挙動を対応づけて学習することができます。

また、これにより、コーチと選手の間のイメージの共有もできるようになる。共有のイメージがないと、「腕をもっとこうして」などと、コーチが言っていることの意図がつかめません。まさにコミュニケーションの齟齬が生じて、何を言われているのかわからないということになるわけですね。

それはトッププロでもそうで、たとえば現在、読売ジャイアンツのコーチをされていて、柏野多様脳特別研究室のリサーチプロフェッサでもある桑田真澄さんの場合も、計測すると、毎回、「これって本当ですか?」と驚かれるんですよ。ボールの回転の掛け方もそうだし、ピッチングのときの視線もそうだし、本人はまったく意識していないのに、きわめて規則的な動きをしています。たとえば、ゴロを捕るときは、ご本人の意識としては手元までボールをしっかり目で追って見ていると思っているけれど、実際は、そうではありません。クリティカルなところまではきっちり見ていて、そこから先は、もう次にボールを投げるべきターゲットの方向を見ています。これは、それこそ無意識のレベルに叩き込まれた自動化した身体のなせる技で、意識の方がうまく編集されて、ちゃんと見て投げているような気がしているんですね。

伊藤: 面白いですね。実際の動きを確認することによって、意識と身体の関係を見直すことができるわけですね。意識の仕方やイメージの仕方をちょっと変えてみるとか。

柏野: そうなんです。自分の主観と客観のズレみたいなものをうまくフィードバックしてやると、次の行動のための探索が比較的うまくいくのだと思います。私たちが開発したシステムは、毎日通い慣れた道を外れて、ちょっと路地を一本入ってみたら、こっちほうがじつは近道だったというようなことを知らせる道具になっていると思うんですね。

伊藤: 探索力ってすごく重要ですね。とくに、探索するときのスコープ(範囲)を適切に設定して、そのなかを丁寧に分割できることが重要だと思っています。先日、あるピアニストの方の話をお聞きしたのですが、ピアニストというのは、コンクールにしろコンサートにしろ、多くの場合、いつも自分が弾いているピアノとは違うピアノを弾かないといけないわけですよね。だから、これくらいの力で鍵盤を押すと、これくらいの音が返ってくるという対応関係を、リハーサルの最初の数分間で把握しなければならないのだそうです。で、そのときに頑張りすぎて躍起になってしまうとうまくいかないとおっしゃっていました。このピアノに関してはこれくらいのスコープで探索すると可能性が引き出せるといった具合に、自分が弾きたいと思っているイメージをピアノの性能に合わせて翻訳していくことが求められるそうです。

それぞれのピアノの性能に合った探索ができるということが、じつはピアニストにとって非常に重要な能力だと聞いて、ピアノが上手いというのは、じつはそういうことだったのかと納得したのです。

柏野: そう、桑田さんの最大の特長って、まさにその適応能力の高さなんですよ。たとえば、マウンドも球場ごとに違うけれど、変化に即座に対応できる。素人とやる軟式野球なんかでも、硬球から自然に切り替えて、針の穴を通すようなコントロールを発揮する。いつも硬球を扱っている人が、急に軟球を持つとうまく投げられないのですが、桑田さんは難なく適応します。

ところが、じつは桑田さんの動きを計測してみると、人一倍、ばらつきが大きいんですよ。

伊藤: あ、そうなんだ?

柏野: たとえば、ピッチングで言えば、計算上は、ボールのリリースポイントがわずか1 cm、あるいは100分の1秒といったオーダーでズレただけでもホームベース上では何十cmもの差になってしまいます。ところが、桑田さんの動きを計測すると、リリースポイントでは十数cm、あるいはそれ以上のレベルでバラつきがある。それは、大学や社会人のピッチャーよりもむしろ大きいくらいです。ところが、コントロールは彼らよりも安定しています。

伊藤: 不思議、そうなんだ!

柏野: つまり、他のピッチャーはリリースポイントでの変動は小さくても、実際のボールの変動は大きい。それくらい、桑田さんの場合は、ゆらぎやノイズを内包したうえで、毎回、それらをうまく吸収するような動きをされているということだと思います。

伊藤: そういうことなんですね。

柏野: その能力の高さが桑田さんの場合、プロのなかでも群を抜いています。桑田さん曰く、投げるときに軌道がレールのようにイメージとして見えるのだそうです。

伊藤: そんなふうに投げられたら気持ちいいでしょうね。

柏野: このお話をお聞きして、「時間的にコントロールしているのですか、それとも空間的にコントロールしているのですか?」と桑田さんに尋ねたら、「レールがあるから、そこにボールを置くだけなんです」とおっしゃっていました。つまり、レール上であれば、どこでボールを放しても目的の場所に行くわけですよね。逆に、ピンポイントでここでしかボールを放せないとなったら、ちょっとした変動が加わっただけでコントロールが乱れてしまうでしょう。だから、探索するときには、ノイズを内包していたほうがいい。そのほうが学習がロバスト(頑健に)なるし、いろいろな道を探索するなかでより最適な道を探すことができるようになりますからね。

制約のなかで新たな身体性を獲得するということ

柏野: しかし最適化ということに関しては、トップアスリートのほうがある意味ハマりやすい罠もあるのです。というのも、ある技に熟達する早道は身体動作の自由度を低減させることだからです。そうやって究極まで適応すると、習熟したことに関してはものすごく細かいところまで解像度が上がりますが、そこから少しでも外れたことに関しては対応できなくなってしまう。これがイップスの原因の一つではないかと考えています。トップアスリートにイップスが多いというのは宿命なのかもしれません。したがって、学習の際にある程度ノイズを加えておく方が、ロバスト性を備えることができると考えています。

一方で、桑田さんのようにゆらぎを内包した身体を持ちつつ、なおかつ意識レベルでは自分はこういうイメージでコントロールしていると思っていて(しかし実際の動きは違うわけで)、その感覚を聞いたところで、他者はなかなか理解できないし、簡単に真似できないのは当然です。それが、スポーツを教えることの難しさと言えます。

伊藤: 桑田さんの動きって、落ち着いているように見えますよね。

柏野: 落ち着いていて、一度動くと恐ろしくなめらかなんです。

伊藤: そうなんだ。

柏野: この間も、ジャイアンツのテレビ中継を見ていて、選手交代のときに、桑田さんが出てきて、ボールをポンと投げたのですが、その動きがまったく淀みがなく驚くほど綺麗でした。あれほど淀みがなく美しい動きを見たのは、成田山の節分の豆まきのときの白鵬以来です(笑)。豆の投げ方一つとっても、やはり違うというか、強いんだろうなぁというのが伝わってきました。しかも、そうした一流の人もそれぞれ事情が違っていて、皆動きの質が異なります。

伊藤: 面白いですね。

スポーツの話から少し逸れますが、じつは昨日、咽頭を摘出した方とお話したんですね。いまは食道発声の練習中で、まだ基本的には空気の音しか出せなくて、最初、何を伝えようとされているのかまったくわからなかったのです。タブレットを使ってテキストを打ち込んでくださったので、情報は伝わるのだけど、人柄が見えないというか。ところが、数時間一緒にいるうちに、その人の身体全体が何か語っているように見えてきて、その方のキャラクターがわかってきたというか、何か声を聞いたような気分になりました。身体から見えてくる人柄、声みたいなものって、なんでしょうね。そこにも可塑性というか、だんだん馴染んでいくみたいな過程があって、とてもいい時間を過ごすことができました。

柏野: 前編のご講演でおっしゃっていたように、遠隔コミュニケーションで難しいのはまさにその部分で、触覚などを使って伝えていくことが必要だと強く思ったわけですが、たとえば、分身ロボットはその人の個性や固有性を反映できるものなんでしょうか。

伊藤: もちろん生身の身体の差というのはキャンセルされます。たとえば、ロボットを通じて働く職場の場合、重度の障がいのある方と、身体は動くけれど外に出られない方がいたとすると、生身であれば、身体の動く方が重度の障がいのある方をサポートすることになるけれど、分身ロボットになるとそういう身体の差はキャンセルされて、皆同じように働けるようになるそうです。一方で、分身ロボットが何体か並ぶと、やはりその人らしさ、個性が見えると言う。手や首の動かし方、表情などに個性が出るようです。

柏野: 面白いですね。それも一種のスポーツみたいですよね。というのも、スポーツの本質は不自由さにあるからです。たとえば、サッカーなら手は使えませんし、バスケットボールならボールを持って3歩以上歩いてはならないわけで、そうしたルール、つまり制約があるからスポーツとして成立します。分身ロボットを操る場合も、できることは限られていて、ある程度自由度を殺すことになりますから。そのなかで、その人なりに操ろうとするところにその人の個性が滲み出るんでしょうね。つまり、同じ身体を操り、それぞれが自分との乖離を埋めようと努力するなかで、それが個性になって現れるというか。

伊藤: そうですね。分身ロボットを操る人をパイロットと言いますが、実際にスポーツにはパイロット的な競技もありますよね。そういう意味でも、分身ロボットを操ることとスポーツはかなり近いのだろうと思います。

遠隔コミュニケーションにおける触覚・聴覚の役割

柏野: ところで、分身ロボットを操る際の、いわゆるセンス・オブ・エージェンシーというか、主体感はどのようなものなのでしょう? ロボットに自分が乗り移っている感じなのか、それとも操っている感じなのか。

伊藤: 「さえさん」がおっしゃるには、怖くても抜けられないとおっしゃっていましたね。たとえば、爬虫類カフェに行ったときに、分身ロボット自体が小さいので、感覚としては爬虫類がジュラシックパークのように大きく見えるんですね。そこへ急にカメが近づいてきてガブリとやられそうになっても、ボタン一つで離脱できるはずなのに、抜けられないのだという。分身ロボット側に自分の意識というか魂が移っていて、生身の身体を置いてきぼりにする感じがして、そこから抜けるという選択肢を選べない、とおっしゃっていました。

一方で、手を動かしたときに自分の手を動かしたような感じはしないし、分身ロボットの手を触られても、感覚を感じることはないようです。エージェンシーというより、オーナーシップとしての感覚を持っているという感じでしょうか。

柏野: なるほど。やはり、体性感覚や内受容感覚がないと、身体的な感覚まではなかなか感じられないわけですね。

伊藤: もしかしたら感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、やはり触覚となると微妙ですね。

柏野: 自分の生身の身体とは別の身体を獲得して、同時に感じてみたいというのはありますね。似たようなこととしては、硬球と軟球を持ち替えたり、グローブを新しいものに換えたりといったことだけでも、ズレが感じられて楽しいものです。どれくらいの違いであれば共存できるのか、これまでの身体の記憶がどれくらい邪魔するものなのか、興味深い領域です。

あと、遠隔コミュニケーションにおいて触覚が、どこまで表現できるのかも興味深い。というのも、たとえばリアルに接する距離にいれば、暴力をふるわれることもあるわけですよね。その強度が強ければ殺されてしまうかもしれません。触覚にはそういう可能性も少なからずあるわけですが、遠隔であれば、まずそういう危険性はないわけで、それが潜在的にせよ、意思決定やコミュニケーションにどう影響するのか気になります。

伊藤: 遠隔はやはり安全です。

柏野: 安全ですよね。だからeスポーツの格闘技ゲームでどれほど夢中になろうとも、リアルと決定的に違って絶対に死ぬことはありません。攻撃を受けても痛くもないし、衝撃も受けない。それがどういう意味を持つのか、非常に興味のあるところです。

伊藤: 逆に言うと、生身だと危険を伴うし、本気でやり取りもするし、自分のなかの違う自分が出てくることがあります。闘争心であったり、性的な欲望であったり。そんなつもりはなくても、自分のなかから何かが生み出されて、自分の輪郭が壊されていくというような。遠隔だとそういうことが起こらないから、安定的な自分の輪郭のままでコミュニケーションできてしまいます。相手も怖くないし、自分も怖くない。よくも悪くも、遠隔だとそういう関係性になってしまうんでしょうね。

柏野: 遠隔コミュニケーションにおいて、触覚的な情報があるか/ないかというのは、非常にクリティカルな問題だと思います。そして、その強度のダイナミックレンジが変われば、それに脳も適応するでしょうし、それによってコミュニケーションのあり方も変わってくる可能性はあるでしょうね。

内側から、生成的に理解することの意義

伊藤: 先日、学生とZoomを使ってワークショップをしてみたんですが、全然盛り上がらなかったんですね。それで、いったん全員カメラをオフにして、PCの画面も消してみたのです。つまり、真っ黒い画面から声だけが出ている状態にしたのですが、面白いことにその方がむしろ情報量が増えるのです。相手の存在感が迫ってくる感じがして、声が聞こえることで、不思議と自分のPCが温かく感じられるようになりました。人がそこにいる感があるというか。

柏野: それは非常に面白いですね。そもそも、接する場合の距離感において音の果たす役割は非常に大きいと思うのです。足音が段々近づいてくるとか、迫りくる危険というのも音で感じられる部分が大きい。音のコミュニケーションを考えるときにも、テキスト情報のような伝達の部分に注目されがちですが、実際は、そこにいる感を感じられるのも音があればこそでしょう。そういった意味で、遠隔コミュニケーションが本当の意味でマルチモーダルになれば、伝達だけじゃないものも拾って、もう少しリッチな生成的コミュニケーションが可能になるのではないかと思っています。

伊藤: そうですね。これまで、聴覚障がい者の方で、寂しさや孤独感を訴える方が多いのはどうしてなのかと思っていましたが、もしかしたらいま柏野さんがおっしゃったように、音が「ここにいる場を共有している感」をもたらしてくれるものだからかもしれませんね。

柏野: 目をつぶっても世界は消えませんが、耳を塞ぐと環境に関する情報がなくなるというのは確かにあって、自分の周りで起きていることを把握したり、自分がいまここにいる感を感じたりというのは、音がある限り、ある程度保たれると思うんですね。にもかかわらず、一般に視覚偏重だったり、明示的な情報の伝達偏重であったりすることには、いろいろ問題があるとつねづね感じています。

スポーツの世界も、最近はスポーツアナリティクス全盛で、野球中継を見ても、球の軌道やスピード、回転数が表示されるようになりました。しかし、それは伝達でしかありません。おそらく伊藤さんたちの取り組みである『見えないスポーツ図鑑』とは対極にある営みだと思います。

伊藤: そう、可視化ですもんね。

柏野: しかも、そういう数値の伝達って全然リアルじゃないんですよ。バッターが打席で感じているボールのリアリティとは全然違う。バッターにとっては、本当にボールが直角に曲がったり、消えたと感じたり、あるいは死ぬかと思うような恐怖を味わったりするわけです。ところが、画面上で「こんなふうに曲がっていますね」と解説されても、視聴者からすれば、「ぜんぜん大したことないじゃん。なんであんな球で空振りするの?」と感じてしまうわけです。

そう考えると、『見えないスポーツ図鑑』というのは、視覚はとりあえず置いておいて、そこで何が起きているのかを観客目線ではなく、プレイヤー目線で伝える試みですよね。自分のプレイヤーとしての感覚をどう伝えるのかという取り組みであって、それこそが現在のスポーツ中継に欠けている部分だと思います。そのリアリティがないまま、データだけ見せて、可視化しようとする。そういう意味でも、伊藤さんたちのアプローチはまったく違っていて、非常に面白いと思っています。

伊藤: ありがとうございます。これって「サイエンスとは何か」ということとも大きくつながっていると思うんですね。サイエンスって、外側の絶対に安全なところから現象を観察して、分析するわけですよね。でも、それだけでは見えない部分や間違って理解してしまう部分がある。内側から観察する、選手の視点で見ると、まったく違うものが見えてくるし、そのほうが、たとえばスポーツ観戦であれば障がいのある方を排除しないとか、多くの可能性が開かれていたりするように思います。こういう研究がどんどん出てくると、世界観も変わってくるんじゃないかな、と壮大なことを考えていたりもするのです。

柏野: その点もとても共感できます。もちろん、生成モデルも人それぞれで、まったく同じように感じられるわけではありませんが、生成の視点で物事や事象を解釈しようとすれば、より深く理解できる部分があるはずです。

伊藤: しかも、身体ってまだまだ未開の大陸だなと思うことばかりですからね。あれ、まだこんなところがあったのか、みたいな。

柏野: そう、だから普通の人でも、それなりの年齢の私のような人間でも、まだまだ開拓の余地はあるし、発見する喜びがあるのだと思っています(笑)。


見えないスポーツ図鑑:https://mienaisports.com/

(取材・文=田井中麻都佳)

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Profile

伊藤 亜紗 / Asa ITO
東京工業大学 科学技術創成研究院 未来の人類研究センター センター長
リベラルアーツ研究教育院 教授
環境・社会理工学院 社会人間科学コース 教授
柏野 牧夫 / Makio KASHINO [ Website ]
田井中 麻都佳 / Madoka TAINAKA (取材・執筆)
編集・ライター/インタープリター。中央大学法学部法律学科卒。科学技術情報誌『ネイチャーインタフェイス』編集長、文科省科学技術・学術審議会情報科学技術委員会専門委員などを歴任。現在は、大学や研究機関、企業のPR誌、書籍を中心に活動中。分野は、科学・技術、音楽など。専門家の言葉をわかりやすく伝える翻訳者(インタープリター)としての役割を追求している。趣味は歌を歌うことと、四十の手習いで始めたヴァイオリン。大人になってから始めたヴァイオリンの上達を目指して奮闘中。